「冬香さんと僕。」#2
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「――この数字、きちんと見直して。ざっと見ても合ってないわよ」
「あ、はい。すいません。課長」
冬香がざっと見てつき返した資料を受け取った青年は、慌てて冬香の言った数字を見た。ざっと見た感じではどこがおかしいか、さっぱり分からない。だが、冬香の言葉を疑う事はなく、検算するため自席へと戻ろうとする。
「お願いね。遠山君、今日の四時からの会議の準備、できてる?」
「はい、課長」
「じゃあ、先に軽く打ち合わせしておきましょうか。どうせあちらはネチネチ言ってくるでしょうし。先にこちらも準備しておかないとね?」
肩をすくめて笑って見せた冬香に、遠山と呼ばれた男が同じく笑う。
「そうですね。じゃあ、5分後にミーティングルームでよろしいですか?」
「ええ、お願い」
頷いた矢先、デスク上の電話が鳴る。
「はい、柊です。はい。ええ――その件でしたら……」
ちらりと遠山を見て、片手を立てて見せた冬香に、遠山も分かっていますとばかりに頷いた。
システム課の課長である柊冬香のその姿を、彼女の部下たちは羨望の目で見つめていた。
女性で課長・部長というのは、昨今そう珍しい物ではない。少なくとも、男女同権、雇用機会均等法などが施行されそれなりに周知された現在は、特に大きな企業ほど企業としての姿勢として、女性の上層組織への参入を増やそうとしてきたからである。
とはいえ、法律が整備されようとそれを運用する人間の意識というものは、そうそう変わる物ではない。「女のくせに」などという言葉は、今でもそれとなく口にされる言葉である。特に――有能な女性に対して。
けれども、少なくともこの課には、冬香に対してそんな感想を抱く人間は居なかった。
確かに年は若いだろう。しかし彼女にはそれ以上の才覚と能力があった。
スーツ姿で颯爽と歩く冬香は、ある意味羨望の的であった。
そんな彼女の左手薬指には、いつでも指輪が輝いている。その相手がもう居ないことを課の人間は知っている。彼女の結婚式に出席した彼らは、その一ヵ月後に葬式にも参列したのである。
それでも、冬香は見た目には変わりなく見えた。気を張っている様子も無い。時折指輪に大事そうに触れる以外は。
そうして今日も冬香たちは忙しなく働いていた。
「……雪くん。おかえりー」
「ただいま。冬香さんもお帰りなさい」
帰り道、駅から家までの道の途中で冬香さんが立っていた。今日も忙しかったのか、どこかヘロヘロとした様子は、どうやら僕を待っていただとかそういう事ではなく、単純に歩くのが途中で面倒になったとかそういう事だろう。手に缶ビール持ってるのが理由の一つだ。しかも口は開いている。
「また歩きながら飲んでたんですか?」
「えへへ。我慢できなくて」
缶を口に運びながら、苦笑いをする。僕としては缶ビール片手に歩きながら飲むのはさすがにどうかと思うのだけれど、たまにこういう真似をしているらしい。疲れているからだとか、色々理由は分かるのだけれど。あんまり他所様に見せられる格好ではないんじゃないか、とか思うわけである。
「まったくもう。荷物持ちますから、貸してください」
ハンドバッグと紙袋を受け取って歩き出す。冬香さんも、一緒になって歩き出す。
街灯が点滅している暗い道を歩いていると、不意に冬香さんの腕が僕の腕に絡まってきた。
「……冬香さん?」
何やら真っ赤になっている冬香さんが、妙にこっちに体重をかけてくる。
ああ。これはつまり。
「もう酔ったんですか」
「えへへー」
えへへ、じゃなくて。そう呟きながら、諦めて彼女の体重を支えて歩く。もういっそ背負って歩いたほうが楽なのは分かっているのだけれど、多分彼女はそこまでは許さないだろうから。あと、ご近所に見られたら説明が面倒臭いし。
「ほら、もうちょっと自分で歩いて下さいよ」
「んー」
わひゃっはー、などと既に呂律すら回ってない冬香さんを引っ張りながら、ようやく見えてきた家を目指して僕は必死に歩く事にした。
階段を昇らなくてはならないので、冬香さんを抱えなおす。
彼女の腕を肩に回して、僕の腕を彼女の腰に回す。「よっ」などと掛け声をかけて、一段ずつ慎重に昇っていく。アルコールのせいか体温が上がった冬香さんは、ぐてーっとしたまま僕に身体を一方的に押し付けている。自分で昇る気はさらさら無いのか、ほとんど僕一人の力で引き上げているに等しいだろう。
スーツとシャツが皺になるなぁ、なんて事を考えつつ、どうにか階段を昇りきった。
はあ、なんて息をついていると冬香さんが不意に目を開けた。
「あら。着いたんだ。ありがとね、雪くん」
「……どういたしまして」
いやにすっきりとした足取りで玄関を開ける冬香さんの背中を見送って、僕は暫しそこに立ち尽くしていた。
――と、冬香さんが玄関から顔を出した。
「雪くーん。ほら、早く入ってー」
「……はい」
なんであんなすっきりした顔してるのだろう。
少々の不条理さに首を捻りながら、僕も家の玄関をくぐった。
電子音のアラームが鳴る寸前、伸ばした手で目覚まし時計のスイッチを切った。
かちり、と針が動く振動が伝わる。そのまま暫し、ぼんやりと布団の温かみと別れを惜しんでから起き上がった。
あくびを一つ。カーテンを引いて、早朝の陽射しを室内に招き入れる。早朝と呼ぶだけあって、外を歩く人影は無い。ごみ捨て場の生ごみを狙うカラス達が電線に留まっているのを見て、ああ今日はごみの日だっけ、などと思い出した。
ふすまを開けて居間兼キッチンになっている部屋に入ると、部屋には白米の炊ける匂いと味噌汁の匂いが漂っていた。見ればキッチンに向かっている義姉の後姿があった。
「……おはよーございます」
「おはよう、雪くん。ご飯できてるよ」
「はい。ありがとうございます」
言って、そんな冬香さんの肩越しにキッチンを見る。
テーブルの上に並んだ朝食を作るために広げたにしては、えらく壊滅的に汚れたキッチンが見える。だが、冬香さんはそれを特に気にした様子は無い。なぜならば、この人はいつだってこんな感じだからだ。
「……顔洗ってきます」
「はあい」
機嫌のよさそうな声が返ってくる。
しかしながら、なんで純和風の朝食に泡だて器を必要としたのだろう。何故、ただ朝ごはんを作るだけで、あんなに物を広げるのか。それは僕が冬香さんと暮らすようになって初めに抱いた疑問だ。それで出来上がる物は極々普通の品なのだから、なおさらだ。
「準備いい? 忘れ物ない?」
「大丈夫ですよ。冬香さんこそ、大丈夫ですか? 定期とか」
「大丈夫だってば。ほら、いつもバッグの中に入れてるから」
「そのバッグ、昨日持ってた奴と違いますけど。入れ替えたんですか?」
え、と声を上げた冬香さんはバッグの中を見る。当然、財布すら入っていないだろう事は予想できた。何せ昨日持っていたのとは、似ても似つかないのだ。
「ちょ、ちょっと待ってて!」
バタバタと部屋に戻って、昨日のバッグを探している冬香さんの背中を眺めながら、軽く溜め息をついた。
ビール一杯で正体をなくしたとは考えにくい。しかしながら冬香さんは、時々ああいうポカをする。バタバタと戻ってきた彼女の手には、いつものバッグがある。
「ごめんね。じゃあ、行こっか」
そう言って冬香さんは、僕の手を取ったのだった。
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