「冬香さんと僕。」#7
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雪也が帰宅したのは、夜の八時を回った頃だった。
普段なら義姉の冬香も同じくらいに帰宅するか、さもなくばもう少し遅いはずなのだが、なぜか家の明かりがついている。
階段の下からそれを見上げて、雪也は小さくため息をついた。
今日は散々だった。アルバイトをしている喫茶店に、まさか冬香が来るとは思いもよらなかった。彼女の普段の生活圏は違う場所にあり、駅からあの店までの道を彼女が歩く可能性は無かったはずだ。だというのに、唐突に現れた。
あの気まずさは、普段の自分とは違うあり方をしている場所に、唐突に家族という要素が闖入したことによる物なのだろう。思わず無視をしてしまったが、実際のところあの場で彼女に親しげに話しかけることなど出来るはずがない。自分は仕事中で、彼女はお客さんなのだから。
おまけに、冬香のほうだって同僚と一緒だったのだ。自分のことを同僚たちに話しているかもわからないのに、馴れ馴れしく話しかけるなんて、出来るはずがない。
そう考えて、雪也は階段を上った。
玄関の鍵を開けて中に入る。
「ただいま……」
「おかえり、雪くん」
台所に立った冬香が微笑みを浮かべたまま、雪也を迎え入れた。その表情に、なぜか雪也はほっとする。靴を脱いで部屋に入る。冬香がテーブルの上に食事を並べるのを見て、それを手伝う。
向かい合って座り、さて食べようか、という寸前。冬香が背筋を伸ばして座りなおした。
「雪くん。お話があります」
「……食べてからじゃ駄目ですか」
「駄目です」
いやに硬い声が返ってくる。
冷めるのに、と呟いて雪也が冬香に視線を移した。
「なんでしょうか」
さて。自分が彼女に怒られるような事を何かしただろうか。学校では品行方正で通しているし、成績だって悪くは無い。特に問題を起こした記憶は無いが、何かあっただろうか。そんな事を考えている雪也を、冬香はじっと見つめている。
何か言い出し難いことなのだろうか。ふと、そんな事を考えた。
もしかしたら、彼女に新しい恋人でも出来たのか。だとしたら、自分がこうして一緒に暮らしている理由は無くなる。自分は所詮、彼女の亡夫の弟だ。一緒に暮らしているのは彼女の厚意に甘えているに過ぎない。この同居はいつ解消されてもおかしくは無いのだ。だが彼女は責任感が強いし、途中で自分を放り出せるほど情も薄くはないだろう。理性と感情の板ばさみにでもなっているのか――。そう考えれば、自分の存在は彼女の重りにしかなっていないのは間違いない。
自分を卑下するつもりは無いが、事実は事実として受け止めよう。雪也がそう考えた矢先、冬香の唇が開いた。
「あのね、雪くん。……その」
ごくり、と唾を飲み込むのが見えた。
雪也はなるべく表情を見せないよう、気を張り詰める。
冬香が躊躇うように口を開いては閉じ、閉じては開く。
それから数分、ようやく意を決したように、冬香が雪也の目を見た。
来るか、と雪也の気持ちが硬化する。そうして冬香はゆっくりと口を開き――。
「――喫茶店で一緒に働いていた女の人って、カノジョ?」
「……はい?」
思わず間の抜けた声で、聞き返してしまった。
冬香が困った顔をしたまま、雪也を見る。だが雪也はといえば、あまりに予想外な方向からの一撃に、混乱をきたしたままだった。
「えと、私としても雪くんがカノジョを作ったりするのは当然だと思うんだけど、やっぱりそのアルバイト先でああいう事をするのは……駄目だと思うの」
唖然としたままの雪也を他所に、冬香が言葉を繋ぐ。
「あ、だからって二人が付き合ってるのに反対とか、そういう事じゃないんだけど。ただその……もう少し節度を持ったほうが良いんじゃないかなぁって。仕事場で、その、抱き合ったりするのは……」
「い、いやいやいやいや! あの、冬香さん?」
雪也が慌てて冬香の言葉を遮った。普段の雪也と違った動揺した様子に冬香も驚いたのか、目を見開いている。
「あのですね。秋乃さんと僕は別にそういう関係じゃなくて、ただの同僚なんですけど」
「ふぅん……秋乃さんって言うんだ?」
「なんでそこで声が低まるのか分かんないんですけど!?」
雪也が悲鳴めいた声を上げる。冬香はといえば、彼のそんな常ならぬ態度に、さらに目が細まった。そういう顔をすると、彼女は仕事場でのやり手のキャリアウーマンめいた顔になる。意図するしないに関わらず、だ。
「別に、雪くんがカノジョを作るのに反対じゃないもの。ただ、仕事場でイチャつくのは駄目よって言ってるだけだもの。仕事場では真剣でいてほしいの。姉として」
「だから、カノジョじゃないですってば……」
「じゃあ妹さんのほう?」
「なんでですかっ!?」
がっくりと倒れそうになる雪也を、冬香は相変わらずの視線で見つめている。
雪也はため息を一つついて、顔を上げた。
「あのですね。秋乃さんは、なんていうか、ちょっとふんわりしてる所があってですね。僕のことを妹の友達って認識してるんですよ。で、妹は小学生時代から扱いが変わってなくて、僕のことも同じくらいな感じで扱ってるんじゃないかなぁって」
「ふーん」
「……なんか反応が冷たいですね」
「そんな事ないよ?」
にっこりと笑ってみせるが、雪也が感じている重圧感は少しも減る様子は無い。
むしろ、増している気がするのは何故なのか。
「雪くんが言うとおり、あの人がカノジョじゃないんだとして。じゃあ、どうして抱きつかれてるの?」
「それは僕に聞かれても困るんですが」
抱きついてくるのは秋乃である。雪也から抱きついてるわけではないし、いつも「やめてほしい」と言っているのだ。
「雪くんが、抱きつかれて鼻の下を伸ばしてるからじゃないの?」
「……鼻の下って」
けれど否定しようとしても、否定しにくい。東島秋乃は現代日本の価値観や美醜の観点から言って美人の部類に入る。おっとりとした性格と、正反対な豊かなスタイルは大学でも様々な男からアプローチを受けているのではなかろうか。それに抱きつかれて鼻の下を伸ばすのは男という生物では仕方ないのではなかろうか。そうでなければスレンダーな女性が好みであるとか、幼女や男性にしか興味がないような特殊な性癖の持ち主であるとか。
「……否定、しないんだ?」
「いや、だって! 僕も一応男ですし、綺麗な人に抱きつかれたら道義云々は別にして嬉しいのは間違いないわけですし! ……あ、あー。いや、その」
冬香の目が半眼になっていた。雪也が言葉に詰まるのを見て、冬香がさらに不機嫌になった。とはいえ、どうしたら良いというのか。問題になっている行為は、雪也が望んでやってもらっている訳ではない。彼がイニシアティブを持っている行動ではないのだ。それについて小言をもらうのは、雪也にしてみればお門違いな事で怒られている気がしてならなかった。確かに職場で同僚に抱きつかれている、というのは社会人かつ責任ある立場にいる冬香の目からすれば論外なのかも知れない。それについて小言をもらうのは仕方ないかも知れない。けれども、その責任が雪也一人にかかるのは、どうにも違う気がするのだ。
「……雪くん、ああいう人が好みなんだ?」
「何故にそんな方向に」
しかも、そんな事を言われるとなれば、なおさらだった。
「違うの?」
「……違うか、といわれると、まあ好みのタイプかも知れないですけども」
雪也の呟きに、「ふーん」と冬香がつまらなそうに頷いた。
「確認取ったわりに、反応が冷たくないですか」
「そんな事ないよ?」
「……付き合ってる人はいないです。秋乃さんは、そりゃ嫌いじゃないけど、そういう対象じゃないです」
静かな声で、雪也が告げる。不意に真剣な空気が二人の間に満ちた。
冬香も、表情を少しだけ改めて、雪也を見る。
「違うんだ」
「違います」
「そっか」
「はい」
そっか、ともう一度冬香は呟いた。
深夜、冬香は自分の部屋でホットココアを口に運びながらぼんやりとしていた。
雪也にカノジョがいるかも知れない、という点に思考が至った時に採った自分の行動には雪也も驚いているだろうが、正直なことを言えば冬香本人が一番驚いていた。
義姉として、保護者として、彼の職場での態度を諌めようと思ってはいたが、彼の私生活についてまで干渉するつもりは無かった。無論、その生活態度が乱れているのであれば、保護者として干渉することを躊躇うつもりはない。だが柊雪也という少年は、出来すぎていると思うほど『良い子』だった。面倒ごとは起こさず、学校でも品行方正で通っているらしい。学業の成績も良く、礼儀だってちゃんとしている。
手のかかるような事は一切無い、ちゃんとし過ぎている雪也に対して、あんな風に絡んだのはもちろん初めてのことだ。……素面では。
雪也が怒り出しても不思議ではなかった。そんな状況でも、彼は困った顔をしながら自分を説得しようとしていた。
『……違うか、といわれると、まあ好みのタイプかも知れないですけども』
脳裏に、彼の言葉が浮かぶ。考えてみれば冬香は雪也の趣味なんて、何も知らない。彼がどういう趣味を持っていて、どんなものが好きなのか。テレビではバラエティを見ているが、教養番組みたいな番組も好みらしい。それくらいだ。本を読んでいる姿をよく見るし、本棚にも色々な本が並んでいるが具体的な趣味は知らない。
一緒に暮らしだして一年になろうというのに、雪也のことをほとんど知らないことに気付いて愕然とした。学校の成績は知っていても、学校でどんな友達と居るのかは知らない。この家に友達を連れてきたことだって無い。
休日に連れ立って出かけることはあるが、冬香が誘わなければ雪也が冬香と一緒に出かけるようなことも無い。
考えてみればみるほど、雪也のことが分からなくなる。当然だ。家族として暮らしていても、結局のところ彼は他人なのだから。これが幼児だったなら、重ねる時間で理解を深めることだって出来ただろう。だが、今の雪也はもう既に人格としては完成しかかっている、青年に近づいた少年なのだから。
不意に思う。彼を子供だと思っていた。だが、もしかしたら子供だと思うのは間違いだったのではないか?
彼は弟であり、そして見知らぬ男だった。
「バカ」
自分を抱きしめて、そう呟く。
雪也は弟だ。大切な弟だ。
そうとも。そうでなくてはならない。そうでなくては―――――。
「――なに考えてんの、私」
冬香は迷走する思考を、そこで断ち切った。


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