「冬香さんと僕。」#10
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目覚めはあまり気分の良いものではなかった。
ぐったりとした体と頭を無理やりに持ち上げて、自分がいる場所を確認する。
自分の部屋ではない。それは自分がベッドではなく、床に敷いた布団に横になっていることからも間違いないだろう。さらに言えば洋室である自室とは違い、明らかに和室の空間が目の前に広がっている。
「……ここは」
ふと下を見る。シャツ一枚で横になっている自分。パジャマどころかスカートすらはいていない。慌てて回りを見れば、ハンガーにかけられたスーツ一式が置いてある。
「えっと……」
ちらりと横を見ると、自分の隣で眠っている女性がいた。
「遠近……そっか」
枕を抱きしめて眠っている女性は、高校時代の後輩の遠近冬香――今は、柊冬香になった女性だった。そこまで考えてようやく思考が正常に戻ってくる。
昨夜、柊家に家庭訪問に訪れたこと。そしてそのまま冬香になし崩しに宴会に持ち込まれてしまったこと。そこで飲みすぎて――多分、つぶれてしまったのだろう。途中から記憶がなくなっていることに苦笑しながら、カーテンを開ける。
空は雲ひとつない快晴だった。眩しいほどの光に目を細めて、宮川椛は振り返った。
「――んう……」
光から逃げるようにタオルケットを被る冬香。それを見て微笑む。
ポスポスと音を立てて襖がノックされた。
「はい?」
「起きてましたか? 朝ごはん作りますけど、どうしますか?」
襖の向こうから雪也が訊ねる。その声に、改めて自分が生徒の家に泊まってしまったのだと気付かされた。
「え、ええ。あ、えっと、頂くわ」
「分かりました。あー、すいませんが冬香さんも起こしといて下さい……」
そう言って台所で準備をしているらしい音が聞こえてきた。
椛は息を一つ吐くと、今も枕を抱えて気持ち良さそうに眠っている後輩の肩を揺すった。
「……いただきます」
「いただきまーす」
「いただきます」
椛の前には、ご飯としじみの味噌汁。それに鮭の切り身と玉子焼きが並んでいた。
「あー……しじみが染みるわー……」
「おっさん臭い……」
冬香の呟きに、雪也が眉間に皺を寄せて呟く。椛はといえば、黙々と箸をすすめていた。当人としては生徒の家に泊まった上に、あまつさえ朝食までご馳走になっているという状況が気まずいことが理由であるのだが。
「そういえば椛さん、気分大丈夫ですか? 昨日は随分……えっと、飲まされてましたけど」
「え? ええ、大丈夫……?」
はて、と椛と冬香が首を傾げた。
今の言葉、どこか違和感があった。言葉として問題は無い。無いはずなのに、それはじわじわと脳裏に広がっていく。
「――椛さん? 冬香さんも、どうかしました?」
箸を止めたままの二人を怪訝に思ったのか、雪也が首を傾げる。
そして、それで二人の違和感は判明した。
「ゆ、ゆゆゆ、雪くん!?」
「はい? どうかしました?」
冬香が慌てて雪也の袖を掴むのと、椛がずり落ちた眼鏡を必死に押し上げて、雪也に向き直ったのは同時だった。
「あの、柊君? さっき私のこと、なんて……」
「え? だから椛さんって呼んだんですけど」
キョトンとした雪也に、椛の顔が引き攣る。さらに冬香の表情も引き攣っていた。
「あの、どうして私のこと、そんな風に呼ぶのかしら」
「……え。だって椛さんが昨日、僕にそう呼ぶように強要したんじゃないですか」
「――は?」
ガクン、と思わず顎が落ちる。冬香も同じように動かなくなっていた。雪也はといえば、冬香に引っ張られるがままになりながら、不思議そうに椛を見返している。
「き、昨日? 私が?」
「はい。『なんで冬香が冬香さんで、私が宮川先生なんだ!』って。えらい剣幕で」
「……」
冬香が椛の顔を見る。
椛も冬香の顔を見た。
お互いに首を横に振り合う。二人とも、そんなことを言った記憶も聞いた記憶も無いらしい。それを他所に、雪也が溜め息混じりに話し続けている。
「椛と呼べって言われて椛先生って呼んだら『学校の外で先生って呼ぶな』って怒ったじゃないですか。だから、椛さんって呼んだんですけど……椛さん?」
雪也の怪訝そうな視線に、椛がようやく口を開いた。とはいえ、何を言うべきかは思いついてなかったのか、パクパクと口を開け閉めしている。
「え、えっと雪くん。いくらなんでも、それは先生に対してはフランクすぎないかな?」
冬香が引き攣った顔のまま、それでも何とかそう言った。その言葉に、椛もコクコクと頷く。対して雪也はといえば、当然のように頷いた。
「だから、学校ではちゃんと宮川先生と呼びますけど……?」
なんで二人が動揺しているのかが理解できていないのか、雪也の怪訝そうな表情は消えない。そして二人の挙動不審な反応も、である。
「ちょ、ちょっと先輩! 雪くんに何を要求してるんですかっ」
「わ、私は覚えてないわよ。それに、彼の生活態度の監督はあなたの管轄でしょうっ」
雪也に聞こえないように、ヒソヒソ声で互いに言い合いを続けている二人を見て、雪也がもう一度首を傾げた。
「……じゃあ、そろそろお暇するわ。柊君、学校では――」
「分かってます。ではお気をつけて。宮川先生」
にっこりと笑って返した雪也に、椛は複雑な表情で頷いた。それから雪也の隣に立っている冬香に視線を移す。
「それじゃあね、冬香。久しぶりに会えて嬉しかったわ」
「私もです、先輩。また今度、飲みましょうね」
「……今度はお互い、記憶があるうちに止めましょうね」
ははは、と虚ろな笑いを二人が上げる。
「じゃあ、また学校で。お邪魔しました」
一礼して階段を下りていく椛を二人は見送る。冬香はちらりと雪也の横顔を眺め、それから椛に視線を移し、もう一度雪也へと目を向けた。
雪也はといえば、さっさと部屋に戻って片付けを始めていた。
「……ねえ、雪くん」
「はい?」
「昨日の話だけど、進学を考えてくれたってことで良いんだよね?」
壁に背を預けて、掃除機をかけ始めた雪也の背中を見つめながら、冬香。その表情は、つい先刻までの二日酔いだと言ってグダグダとしていた彼女のそれとは違う。
「ええ。冬香さんが気にするなと言ってくれましたし……それにやっぱり、大学くらい出ておいたほうが、何かと得みたいですし」
「ん。そう思ってくれたなら良いや」
掃除機の音を聞きながら、冬香はそう呟いた。
そして、じっとりとした目で改めて雪也の背中を見る。
「それはそれとして、雪くん」
「――なんでしょうか」
「先輩のこと、椛さんなんて呼ぶなんて、馴れ馴れしすぎると思うの」
「……それは僕も昨日、散々言ったんですが」
じっとりとした目が冬香に返される。
「冬香さんが横で椛さんの肩を持って僕に名前を呼ばせたわけですが」
「――今日は良い天気ねぇ」
「そうですね。丁度いいから、布団も干しちゃいましょうか」
掃除機のスイッチを再度入れて雪也が掃除をしている間、冬香は二日酔いと記憶にない昨日の自分を罵り続けていた。
自宅へと帰りついた椛は、着ていたスーツを脱ぐとぐったりとベッドに転げ込んだ。
まったくもって自分らしくなかった。
この6年以上教師を続けてきて、こんな風になったのは初めてのことだ。生徒の家に泊まってしまうだなんて。
いくら保護者が学生時代の懐かしい後輩だったと言っても、正体を失うまで飲む必要は無かったはずなのだ。おまけに、記憶には無いが酔っ払ったまま生徒に絡んでしまったらしい。……自分が絡み酒だとは知らなかった。普段の職場の飲み会で記憶をなくすまで飲んだなんてことは無いし、絡み酒と言われたことも無い。
椛はぼんやりと天井を眺める。
椛さん、だなんて呼ばれるのは何年ぶりだろう。そんなことを考えている事に気付いて、思わず赤面してしまった。
「何考えてるんだか。……シャワー浴びよ」
頭を一振りして、バスルームへと入る。すっきりすれば、この取り留めのない不可思議な感覚も収まるだろう。そう考えながら。
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コメント
駄目なお姉さん大好きです。
投稿 | 2008年3月24日 (月) 00時07分