「冬香さんと僕。」#11
/11
「ええ。だからそれは前にも言ったでしょう!? いい加減にして、お母さん! 私はもういい大人なんだから!」
携帯電話に向けて怒鳴り散らしているのは、柊冬香だった。
オフィスの休憩スペースには冬香以外の姿は無い。窓の外は真っ暗で、ビルの窓に点った灯りだけが皓々と輝いている。それを見下ろしながら、冬香は忌々しげに舌打ちをした。
「あのね、私まだ仕事中なの! それを何度も何度も同じこと言って……!」
携帯電話を耳から放し、最後とばかりに怒鳴り声を上げる。
「もうこの話は止めて頂戴! 切るからね!」
電話の向こうでも何か怒鳴っているようだが、冬香は無視して通話を切った。
もう一度電話をかけてくる様子もなく、冬香は深い溜め息をはいて冷え切った紅茶を口に運ぶ。窓の外を流れる光は、高速道路を走る車のヘッドライトだろう。
不意に携帯電話のLEDが明滅し、振動が手に伝わった。再度電話がかかってきたのを見て冬香は忌々しげにそれを広げた。
「……ああ、もう。しつこいったら」
吐き捨てるように呟きながら、冬香は電話の着信履歴を見る。
その番号は、冬香の弟からの物だった。
途端、冬香の表情が晴れがましいものに変わる。
「はい、もしもし?」
声は一オクターブ高まり、機嫌のよさそうな響きが部屋に広がった。
果たして携帯から聞こえてきたのは、彼女の義弟の声だった。
アルバイトが少し押して、まだ帰れそうにないという彼の声に、冬香は小さく頷く。
「うん。私もちょっと残業してて、まだ帰れそうにないの。うん。ええ、気をつけて帰ってね。え? ……うん。大丈夫だから。ええ。じゃあ切るわね?」
体調を心配する雪也に笑って返して、冬香は通話を切った。
晴れがましい顔で振り返って、そこで動きが止まる。
休憩スペースの入り口に、唖然とした顔の葛木美咲が立っていたからだ。
「あら、美咲ちゃんも休憩?」
「え? あ、は、はい」
コクコクと頷いた美咲に、冬香は機嫌よく微笑む。
「ごめんね。頑張って片付けちゃいましょ。じゃ、私は先に戻るわね」
言ってすれ違う冬香に、美咲は呆然としたまま頷いて道を譲った。機嫌よく歩く冬香の背中を唖然としたまま見送る美咲は、最後に首を傾げてしまった。
課長である柊冬香は、非常に有能な上司だった。厳しいところもあるが、ユーモアを解する気の良い上司でもある。結婚式に出席した時の彼女は美しかったし、葬儀に出席した時の彼女は不安になるほど消沈していた。
職場ではそんな様子は微塵も見せなかった。皆も気を遣い、事故の件には触れないように気遣った。しかしそれでも、彼女のあんな嬉しそうな仕草を見たのは美咲は初めてだった。もしかして、新しい恋人でも出来たのだろうか。そんなことを考える。
ゴシップは嫌いでは無いが、上司をそのゴシップのネタにするのは気が咎める。
美咲は見なかったことにしよう、と心の中で決めつつも、いつか聞いてみようなどと考えて仕事に戻る事にした。
「――で、僕はなんでこんな事をしてるんでしょうか」
椅子に頬杖を突きながら、雪也は溜め息を吐いた。
閉店の時刻はとっくに過ぎている店内は、もうほとんど片付いている。照明もほとんど落とされ、現在明かりが灯っているのは雪也が座っている辺りだけだ。そして雪也の向かい側には東島夏奈が座っていた。
俯いたままの夏奈は必死な表情でペンを走らせている。彼女の目の前にはノートと数学の教科書が広げられていた。
「うっさい柊」
「文句あるなら帰ろうか?」
「ごめんなさい。もうちょっとだけ居て下さい」
待ち時間なしで夏奈が謝るのを聞きながら、雪也は溜め息をもう一つ吐いた。冬香に電話した時は仕事が押したと言ったが、その実はバイト先の娘の一人にして同級生の東島夏奈が明日の宿題を綺麗さっぱり忘れていたことに端を発したのだ。彼女は雪也がその部分を既に終えていることを確認すると、泣きついてきた。写させろ、とまでは言わなかったが教えてくれといわれたのだ。父親であるマスターに世話になっている身として、無下に断ることも出来なかった雪也は渋々ながら頷いたのである。
「大体、秋乃さんに聞けばいいだろ、これくらい」
「お姉ちゃんが素直に教えてくれるハズないじゃない」
「そうかぁ? 答えは教えてくれないけど、導き方は教えてくれるだろ。ヒントとか」
「そりゃ、柊はお姉ちゃんのお気に入りだもの。妹にはシビアなの」
特に考えて答えているわけではないのだろう。夏奈の答えは、ほとんど反射的に出ているもののようだった。
「お気に入りね。まあ嫌われてはいないだろうけど」
「というより、あんたの前だと猫被りまくりよ」
カリカリと動かしていた手がぴたりと止まる。
「ね、柊。これどうするの?」
差し出されたノートを見て、雪也は教科書のページを指さす。横着とも見えるが、夏奈にはこれで十分なのだ。確かに東島夏奈という人間は単細胞な人間である。かつて雪也は彼女のことを「バカ」と評したが、それは彼女が劣っているのではなく、切り替えが下手で一つのことにしか集中できないことを評しての言葉だった。
それゆえに、現在。宿題を解くという事に集中している彼女には、この程度で十分なのだ。
マスターが淹れてくれたコーヒーを啜りながら、雪也は時計に目を走らせる。
冬香がまだ残業中だと聞いてから、まだ数分しか経っていない。
「ね。さっき電話してたの誰?」
不意に、夏奈が見上げて尋ねた。どうやら集中が途切れたらしい。興味の対象が複数あると、忍耐力が足りなくなる辺りが夏奈の夏奈たるゆえんだった。
「誰って言われても、家族だよ」
「家族……?」
夏奈は、雪也とは1年の頃からのクラスメートである。とはいえ、彼の家族のことはよく知らない。ただ雪也と同じ中学出身の友人から、彼が天涯孤独らしいなどという事は聞いていた。それを当人に確認するほど無思慮でも無遠慮でも無い夏奈は、それでも不思議そうに雪也を見つめなおす。
「姉がね」
雪也はといえば、特に気にした様子もなくそう続けた。
「……それにしては楽しそうだったけど」
「残業を楽しそうにしているように見えるとは、中々いい目をしてるな。東島」
ひんやりとした雪也の声に、夏奈が慌てて視線をノートに戻す。
柊雪也という人間はよく言えば誰にでも人当たりよく、悪く言えば他人に一定距離から内側に踏み込ませない人間だ。アルバイトを通じて、他のクラスメートよりは気の置けない友人関係を構築できたとは思うが、それ以上では無い。今も、彼は自分の家族については口をつぐんでしまう。
「……ゆーきーやーちゃん!」
などと考えていたら、がばり、と椅子の後ろから雪也が抱きしめられていた。
「秋乃さん。何事でしょうか」
「んー? 雪也ちゃんが座ってたから抱きついてみたの」
にまにまと笑いながら、雪也を背後から抱きしめている姉を、夏奈は思わず睨み付ける。こっちが宿題でヒイヒイ言っているというのに、何をしているのか。
「あら、夏奈の勉強を見てくれてたの? ありがと、雪也ちゃん」
「いえ。明日、東島が答えてくれないと、他の連中にもとばっちりがあるんで」
数学教師の陰険さは学年中で有名なのだ。
「んふふ。雪也ちゃんは優しいね」
「自分のためですよ」
ぐいぐいと後頭部に押し付けられる柔らかさを気にしないようにしつつ、雪也がそっけなく答えるのを楽しげに秋乃は眺めていた。
「謙遜しちゃってぇ」
「別に。……あの。出来れば放していただきたいんですが」
「気持ちよくない?」
ぶふっ、と音を立てて夏奈が噴き出した。さらに、ゆらりと立ち上がる。
「おねーちゃん……宿題の邪魔だから、どっか行って」
睨み付ける妹を見て、ゆっくりと笑った秋乃がその手を雪也から放す。後頭部の柔らかさと熱が離れるのを感じて、雪也が安堵したように息を漏らす。
「じゃあね、雪也ちゃん。夏奈も、あんまり迷惑かけないようにね」
「誰もかけてないわよ! さっさと戻る!」
「はいはい」などと言いながら奥の自宅へと戻って行った秋乃を睨みつけ、さらに雪也に険しい目を向けた。
「……助平」
「僕は何もしてないんだけど」
「うっさい。助平」
「帰っていい?」
「ごめんなさい。もうちょっと待ってください」
立場の弱い夏奈だった。


最近のコメント