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2008年3月

「冬香さんと僕。」#11

/11

「ええ。だからそれは前にも言ったでしょう!? いい加減にして、お母さん! 私はもういい大人なんだから!」
 携帯電話に向けて怒鳴り散らしているのは、柊冬香だった。
 オフィスの休憩スペースには冬香以外の姿は無い。窓の外は真っ暗で、ビルの窓に点った灯りだけが皓々と輝いている。それを見下ろしながら、冬香は忌々しげに舌打ちをした。
「あのね、私まだ仕事中なの! それを何度も何度も同じこと言って……!」
 携帯電話を耳から放し、最後とばかりに怒鳴り声を上げる。
「もうこの話は止めて頂戴! 切るからね!」
 電話の向こうでも何か怒鳴っているようだが、冬香は無視して通話を切った。
 もう一度電話をかけてくる様子もなく、冬香は深い溜め息をはいて冷え切った紅茶を口に運ぶ。窓の外を流れる光は、高速道路を走る車のヘッドライトだろう。
 不意に携帯電話のLEDが明滅し、振動が手に伝わった。再度電話がかかってきたのを見て冬香は忌々しげにそれを広げた。
「……ああ、もう。しつこいったら」
 吐き捨てるように呟きながら、冬香は電話の着信履歴を見る。
 その番号は、冬香の弟からの物だった。
 途端、冬香の表情が晴れがましいものに変わる。
「はい、もしもし?」
 声は一オクターブ高まり、機嫌のよさそうな響きが部屋に広がった。
 果たして携帯から聞こえてきたのは、彼女の義弟の声だった。
 アルバイトが少し押して、まだ帰れそうにないという彼の声に、冬香は小さく頷く。
「うん。私もちょっと残業してて、まだ帰れそうにないの。うん。ええ、気をつけて帰ってね。え? ……うん。大丈夫だから。ええ。じゃあ切るわね?」
 体調を心配する雪也に笑って返して、冬香は通話を切った。
 晴れがましい顔で振り返って、そこで動きが止まる。
 休憩スペースの入り口に、唖然とした顔の葛木美咲が立っていたからだ。
「あら、美咲ちゃんも休憩?」
「え? あ、は、はい」
 コクコクと頷いた美咲に、冬香は機嫌よく微笑む。
「ごめんね。頑張って片付けちゃいましょ。じゃ、私は先に戻るわね」
 言ってすれ違う冬香に、美咲は呆然としたまま頷いて道を譲った。機嫌よく歩く冬香の背中を唖然としたまま見送る美咲は、最後に首を傾げてしまった。
 課長である柊冬香は、非常に有能な上司だった。厳しいところもあるが、ユーモアを解する気の良い上司でもある。結婚式に出席した時の彼女は美しかったし、葬儀に出席した時の彼女は不安になるほど消沈していた。
 職場ではそんな様子は微塵も見せなかった。皆も気を遣い、事故の件には触れないように気遣った。しかしそれでも、彼女のあんな嬉しそうな仕草を見たのは美咲は初めてだった。もしかして、新しい恋人でも出来たのだろうか。そんなことを考える。
 ゴシップは嫌いでは無いが、上司をそのゴシップのネタにするのは気が咎める。
 美咲は見なかったことにしよう、と心の中で決めつつも、いつか聞いてみようなどと考えて仕事に戻る事にした。


「――で、僕はなんでこんな事をしてるんでしょうか」
 椅子に頬杖を突きながら、雪也は溜め息を吐いた。
 閉店の時刻はとっくに過ぎている店内は、もうほとんど片付いている。照明もほとんど落とされ、現在明かりが灯っているのは雪也が座っている辺りだけだ。そして雪也の向かい側には東島夏奈が座っていた。
 俯いたままの夏奈は必死な表情でペンを走らせている。彼女の目の前にはノートと数学の教科書が広げられていた。
「うっさい柊」
「文句あるなら帰ろうか?」
「ごめんなさい。もうちょっとだけ居て下さい」
 待ち時間なしで夏奈が謝るのを聞きながら、雪也は溜め息をもう一つ吐いた。冬香に電話した時は仕事が押したと言ったが、その実はバイト先の娘の一人にして同級生の東島夏奈が明日の宿題を綺麗さっぱり忘れていたことに端を発したのだ。彼女は雪也がその部分を既に終えていることを確認すると、泣きついてきた。写させろ、とまでは言わなかったが教えてくれといわれたのだ。父親であるマスターに世話になっている身として、無下に断ることも出来なかった雪也は渋々ながら頷いたのである。
「大体、秋乃さんに聞けばいいだろ、これくらい」
「お姉ちゃんが素直に教えてくれるハズないじゃない」
「そうかぁ? 答えは教えてくれないけど、導き方は教えてくれるだろ。ヒントとか」
「そりゃ、柊はお姉ちゃんのお気に入りだもの。妹にはシビアなの」
 特に考えて答えているわけではないのだろう。夏奈の答えは、ほとんど反射的に出ているもののようだった。
「お気に入りね。まあ嫌われてはいないだろうけど」
「というより、あんたの前だと猫被りまくりよ」
 カリカリと動かしていた手がぴたりと止まる。
「ね、柊。これどうするの?」
 差し出されたノートを見て、雪也は教科書のページを指さす。横着とも見えるが、夏奈にはこれで十分なのだ。確かに東島夏奈という人間は単細胞な人間である。かつて雪也は彼女のことを「バカ」と評したが、それは彼女が劣っているのではなく、切り替えが下手で一つのことにしか集中できないことを評しての言葉だった。
 それゆえに、現在。宿題を解くという事に集中している彼女には、この程度で十分なのだ。
 マスターが淹れてくれたコーヒーを啜りながら、雪也は時計に目を走らせる。
 冬香がまだ残業中だと聞いてから、まだ数分しか経っていない。
「ね。さっき電話してたの誰?」
 不意に、夏奈が見上げて尋ねた。どうやら集中が途切れたらしい。興味の対象が複数あると、忍耐力が足りなくなる辺りが夏奈の夏奈たるゆえんだった。
「誰って言われても、家族だよ」
「家族……?」
 夏奈は、雪也とは1年の頃からのクラスメートである。とはいえ、彼の家族のことはよく知らない。ただ雪也と同じ中学出身の友人から、彼が天涯孤独らしいなどという事は聞いていた。それを当人に確認するほど無思慮でも無遠慮でも無い夏奈は、それでも不思議そうに雪也を見つめなおす。
「姉がね」
 雪也はといえば、特に気にした様子もなくそう続けた。
「……それにしては楽しそうだったけど」
「残業を楽しそうにしているように見えるとは、中々いい目をしてるな。東島」
 ひんやりとした雪也の声に、夏奈が慌てて視線をノートに戻す。
 柊雪也という人間はよく言えば誰にでも人当たりよく、悪く言えば他人に一定距離から内側に踏み込ませない人間だ。アルバイトを通じて、他のクラスメートよりは気の置けない友人関係を構築できたとは思うが、それ以上では無い。今も、彼は自分の家族については口をつぐんでしまう。
「……ゆーきーやーちゃん!」
 などと考えていたら、がばり、と椅子の後ろから雪也が抱きしめられていた。
「秋乃さん。何事でしょうか」
「んー? 雪也ちゃんが座ってたから抱きついてみたの」
 にまにまと笑いながら、雪也を背後から抱きしめている姉を、夏奈は思わず睨み付ける。こっちが宿題でヒイヒイ言っているというのに、何をしているのか。
「あら、夏奈の勉強を見てくれてたの? ありがと、雪也ちゃん」
「いえ。明日、東島が答えてくれないと、他の連中にもとばっちりがあるんで」
 数学教師の陰険さは学年中で有名なのだ。
「んふふ。雪也ちゃんは優しいね」
「自分のためですよ」
 ぐいぐいと後頭部に押し付けられる柔らかさを気にしないようにしつつ、雪也がそっけなく答えるのを楽しげに秋乃は眺めていた。
「謙遜しちゃってぇ」
「別に。……あの。出来れば放していただきたいんですが」
「気持ちよくない?」
 ぶふっ、と音を立てて夏奈が噴き出した。さらに、ゆらりと立ち上がる。
「おねーちゃん……宿題の邪魔だから、どっか行って」
 睨み付ける妹を見て、ゆっくりと笑った秋乃がその手を雪也から放す。後頭部の柔らかさと熱が離れるのを感じて、雪也が安堵したように息を漏らす。
「じゃあね、雪也ちゃん。夏奈も、あんまり迷惑かけないようにね」
「誰もかけてないわよ! さっさと戻る!」
 「はいはい」などと言いながら奥の自宅へと戻って行った秋乃を睨みつけ、さらに雪也に険しい目を向けた。
「……助平」
「僕は何もしてないんだけど」
「うっさい。助平」
「帰っていい?」
「ごめんなさい。もうちょっと待ってください」
 立場の弱い夏奈だった。


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res

コメントいただきました。

>駄目なお姉さん大好きです。

はい。ワタクシもダイスキでありますともさ!

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「冬香さんと僕。」#10

/10

 目覚めはあまり気分の良いものではなかった。
 ぐったりとした体と頭を無理やりに持ち上げて、自分がいる場所を確認する。
 自分の部屋ではない。それは自分がベッドではなく、床に敷いた布団に横になっていることからも間違いないだろう。さらに言えば洋室である自室とは違い、明らかに和室の空間が目の前に広がっている。
「……ここは」
 ふと下を見る。シャツ一枚で横になっている自分。パジャマどころかスカートすらはいていない。慌てて回りを見れば、ハンガーにかけられたスーツ一式が置いてある。
「えっと……」
 ちらりと横を見ると、自分の隣で眠っている女性がいた。
「遠近……そっか」
 枕を抱きしめて眠っている女性は、高校時代の後輩の遠近冬香――今は、柊冬香になった女性だった。そこまで考えてようやく思考が正常に戻ってくる。
 昨夜、柊家に家庭訪問に訪れたこと。そしてそのまま冬香になし崩しに宴会に持ち込まれてしまったこと。そこで飲みすぎて――多分、つぶれてしまったのだろう。途中から記憶がなくなっていることに苦笑しながら、カーテンを開ける。
 空は雲ひとつない快晴だった。眩しいほどの光に目を細めて、宮川椛は振り返った。
「――んう……」
 光から逃げるようにタオルケットを被る冬香。それを見て微笑む。
 ポスポスと音を立てて襖がノックされた。
「はい?」
「起きてましたか? 朝ごはん作りますけど、どうしますか?」
 襖の向こうから雪也が訊ねる。その声に、改めて自分が生徒の家に泊まってしまったのだと気付かされた。
「え、ええ。あ、えっと、頂くわ」
「分かりました。あー、すいませんが冬香さんも起こしといて下さい……」
 そう言って台所で準備をしているらしい音が聞こえてきた。
 椛は息を一つ吐くと、今も枕を抱えて気持ち良さそうに眠っている後輩の肩を揺すった。


「……いただきます」
「いただきまーす」
「いただきます」
 椛の前には、ご飯としじみの味噌汁。それに鮭の切り身と玉子焼きが並んでいた。
「あー……しじみが染みるわー……」
「おっさん臭い……」
 冬香の呟きに、雪也が眉間に皺を寄せて呟く。椛はといえば、黙々と箸をすすめていた。当人としては生徒の家に泊まった上に、あまつさえ朝食までご馳走になっているという状況が気まずいことが理由であるのだが。
「そういえば椛さん、気分大丈夫ですか? 昨日は随分……えっと、飲まされてましたけど」
「え? ええ、大丈夫……?」
 はて、と椛と冬香が首を傾げた。
 今の言葉、どこか違和感があった。言葉として問題は無い。無いはずなのに、それはじわじわと脳裏に広がっていく。
「――椛さん? 冬香さんも、どうかしました?」
 箸を止めたままの二人を怪訝に思ったのか、雪也が首を傾げる。
 そして、それで二人の違和感は判明した。
「ゆ、ゆゆゆ、雪くん!?」
「はい? どうかしました?」
 冬香が慌てて雪也の袖を掴むのと、椛がずり落ちた眼鏡を必死に押し上げて、雪也に向き直ったのは同時だった。
「あの、柊君? さっき私のこと、なんて……」
「え? だから椛さんって呼んだんですけど」
 キョトンとした雪也に、椛の顔が引き攣る。さらに冬香の表情も引き攣っていた。
「あの、どうして私のこと、そんな風に呼ぶのかしら」
「……え。だって椛さんが昨日、僕にそう呼ぶように強要したんじゃないですか」
「――は?」
 ガクン、と思わず顎が落ちる。冬香も同じように動かなくなっていた。雪也はといえば、冬香に引っ張られるがままになりながら、不思議そうに椛を見返している。
「き、昨日? 私が?」
「はい。『なんで冬香が冬香さんで、私が宮川先生なんだ!』って。えらい剣幕で」
「……」
 冬香が椛の顔を見る。
 椛も冬香の顔を見た。
 お互いに首を横に振り合う。二人とも、そんなことを言った記憶も聞いた記憶も無いらしい。それを他所に、雪也が溜め息混じりに話し続けている。
「椛と呼べって言われて椛先生って呼んだら『学校の外で先生って呼ぶな』って怒ったじゃないですか。だから、椛さんって呼んだんですけど……椛さん?」
 雪也の怪訝そうな視線に、椛がようやく口を開いた。とはいえ、何を言うべきかは思いついてなかったのか、パクパクと口を開け閉めしている。
「え、えっと雪くん。いくらなんでも、それは先生に対してはフランクすぎないかな?」
 冬香が引き攣った顔のまま、それでも何とかそう言った。その言葉に、椛もコクコクと頷く。対して雪也はといえば、当然のように頷いた。
「だから、学校ではちゃんと宮川先生と呼びますけど……?」
 なんで二人が動揺しているのかが理解できていないのか、雪也の怪訝そうな表情は消えない。そして二人の挙動不審な反応も、である。
「ちょ、ちょっと先輩! 雪くんに何を要求してるんですかっ」
「わ、私は覚えてないわよ。それに、彼の生活態度の監督はあなたの管轄でしょうっ」
 雪也に聞こえないように、ヒソヒソ声で互いに言い合いを続けている二人を見て、雪也がもう一度首を傾げた。


「……じゃあ、そろそろお暇するわ。柊君、学校では――」
「分かってます。ではお気をつけて。宮川先生」
 にっこりと笑って返した雪也に、椛は複雑な表情で頷いた。それから雪也の隣に立っている冬香に視線を移す。
「それじゃあね、冬香。久しぶりに会えて嬉しかったわ」
「私もです、先輩。また今度、飲みましょうね」
「……今度はお互い、記憶があるうちに止めましょうね」
 ははは、と虚ろな笑いを二人が上げる。
「じゃあ、また学校で。お邪魔しました」
 一礼して階段を下りていく椛を二人は見送る。冬香はちらりと雪也の横顔を眺め、それから椛に視線を移し、もう一度雪也へと目を向けた。
 雪也はといえば、さっさと部屋に戻って片付けを始めていた。
「……ねえ、雪くん」
「はい?」
「昨日の話だけど、進学を考えてくれたってことで良いんだよね?」
 壁に背を預けて、掃除機をかけ始めた雪也の背中を見つめながら、冬香。その表情は、つい先刻までの二日酔いだと言ってグダグダとしていた彼女のそれとは違う。
「ええ。冬香さんが気にするなと言ってくれましたし……それにやっぱり、大学くらい出ておいたほうが、何かと得みたいですし」
「ん。そう思ってくれたなら良いや」
 掃除機の音を聞きながら、冬香はそう呟いた。
 そして、じっとりとした目で改めて雪也の背中を見る。
「それはそれとして、雪くん」
「――なんでしょうか」
「先輩のこと、椛さんなんて呼ぶなんて、馴れ馴れしすぎると思うの」
「……それは僕も昨日、散々言ったんですが」
 じっとりとした目が冬香に返される。
「冬香さんが横で椛さんの肩を持って僕に名前を呼ばせたわけですが」
「――今日は良い天気ねぇ」
「そうですね。丁度いいから、布団も干しちゃいましょうか」
 掃除機のスイッチを再度入れて雪也が掃除をしている間、冬香は二日酔いと記憶にない昨日の自分を罵り続けていた。

 自宅へと帰りついた椛は、着ていたスーツを脱ぐとぐったりとベッドに転げ込んだ。
 まったくもって自分らしくなかった。
 この6年以上教師を続けてきて、こんな風になったのは初めてのことだ。生徒の家に泊まってしまうだなんて。
 いくら保護者が学生時代の懐かしい後輩だったと言っても、正体を失うまで飲む必要は無かったはずなのだ。おまけに、記憶には無いが酔っ払ったまま生徒に絡んでしまったらしい。……自分が絡み酒だとは知らなかった。普段の職場の飲み会で記憶をなくすまで飲んだなんてことは無いし、絡み酒と言われたことも無い。
 椛はぼんやりと天井を眺める。
 椛さん、だなんて呼ばれるのは何年ぶりだろう。そんなことを考えている事に気付いて、思わず赤面してしまった。
「何考えてるんだか。……シャワー浴びよ」
 頭を一振りして、バスルームへと入る。すっきりすれば、この取り留めのない不可思議な感覚も収まるだろう。そう考えながら。


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「冬香さんと僕。」#9

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「家庭訪問、ですか? こんな時期に?」
「ええ。来年には受験もあるし。……進路は考えている?」
「まあ、それなりには」
 夕刻の進路指導室は、沈みかけた夕陽によって真っ赤に染まっていた。窓枠の影が黒々と床に伸び、切り分けられた領域が少しずつ部屋の奥へと延びている。
 担任からショートホームルーム後に進路指導室へ来るよう告げられた柊雪也は、目の前に座っている女性に視線を向けなおした。
「でも、なんで急に? クラスの他の奴らにはそんな事は言ってないですよね」
「ええ……」
 窓を背に座っている担任の宮川椛は、少しだけ居心地が悪そうに身動ぎした。夕陽が逆光になっているせいか、雪也には椛の表情は見えない。雪也が目を細めるのを見て、椛は立ち上がった。
「……柊君のご家庭の事情が、ね」
 カーテンを引いて夕陽を遮る。その後姿を雪也が見つめている。
「――なるほど」
 気遣わしげに振り向いた椛に、雪也はただ頷いて見せた。その表情には傷ついた様子も、怒りを感じている様子も無い。ただ当たり前のように頷いている。
「無神経なことを言ったわね。ごめんなさい」
「あ、いえ。そんな事ないですから」
 頭を下げた椛に、雪也はこれには慌てたように答えた。
「……あー。ただ、家庭訪問と言われても……」
 そして困ったように唸る。そんな雪也に首を傾げた椛は、もう一度彼の身上書を確認した。保護者欄には柊冬香という名前がある。
「僕の保護者、仕事してるんで平日は夜じゃないと家に居ないんですよ」
「そちらの都合の良い日で構わないわ。休日でも、そちらが良ければ平日の夜でも構わないから。聞いてみてくれないかしら」
「分かりました」
 立ち上がって、ふと思いついたように顔を上げた。
「そういえば先生、香水つけてます?」
「――え!? え、ええ。少し気分を変えたかったから。……もしかして匂いがきつかった? 着けなれてない物だから失敗したかしら」
「いいえ? 良い匂いがするなって思っただけですから。じゃあ、失礼します」
 進路指導室を出て行った雪也を見送って、椛は小さくため息をついた。


 椛が地図に書かれた道をたどって柊家の前に立ったのは、金曜の夜の8時を回った時刻だった。翌日が休みという事もあり、彼の保護者がこの時間を指定してきたからである。翌日は用事があるので――と申し訳なさそうな顔をした雪也を思い出して、椛は小さく苦笑いをした。
 こんな時間に手ぶらは失礼かとも思ったが、教職にある者が手土産を持って生徒の家を訪ねるというのも外聞が悪い。相手も理解してくれるだろうか、などと考えつつインターホンのスイッチを押した。
 ばたばたと音がして、ドアが開く。
「こんばんわ、先生」
「こんばんわ、柊君。……お家の方はいらっしゃる?」
「え? ええ。帰ってきてますが……」
 なにやら背後でバタバタした物音が立っている。かと思えば、何かをひっくり返すような音や、きゃーという若い女性の悲鳴めいた声。さらに何かが割れたような音がした。
「え、と。大丈夫?」
「……ちょっとお待ちを。すいません」
 パタン、とドアが閉まる。そして、雪也の声が聞こえてくる。「ああ、もう。冬香さんは座ってて下さい。急に掃除するなんて」「だって、雪くん」「ほら、そこに破片落ちてるから動かないで下さいよ」「……私、お茶煎れるから」「それも僕がやるから、良いから座ってってください」
 なにやらバタバタと混乱が広がっているらしい。雪也の声に含まれる響きは聞きなれないもので、それが不思議に思えた。
「……すいません、お待たせしました」
 数分と経たずにドアが再び開いた。
 雪也が招き入れると、部屋は外から聞こえた惨憺たる音が嘘のように片付いている。
 奥に続く襖が固く締め切られているのが気になったが、長い教師生活で培った自制心はそれ以上襖を注視する事をやめさせてくれた。
 部屋の中央にテーブルが置かれ、その傍らに座っていた女性が椛を見て立ち上がる。
 思ったよりも若い女性が、表情をキリリと引き締めて椛に向けて口を開いた。
「すいません、お恥ずかしいところをお見せしてしまって。雪く……、えと、雪也君の保護者の柊冬香と申しま……」
 片手を差し出しながら、唖然とした顔になる。
 そしてそれはきっと、自分も同じだっただろうと椛は思う。
「遠近(とおちか)!?」
「椛先輩!?」
 唖然としあったままお互いを見詰め合う二人を見比べて、雪也が首を傾げた。
「と、遠近が柊君の保護者、なの?」
「先輩が……雪くんの担任なんですか?」
 わなわなとお互いを指差しあった後、二人は突然破顔した。抱き合って、お互いの手を取り合っている。
「なっつかしい! 何年ぶり?」
「かれこれ10年ですよ! 先輩もお変わりなく!」
 満面の笑みを浮かべて話し合う二人に、雪也がお茶を煎れた湯のみをテーブルに置きつつ話しかける。
「冬香さんと先生、お知り合いなんですか?」
「うん、高校時代の先輩なの。……でも、先輩が雪くんの担任なんて、凄い偶然」
 冬香が「あ」と声を上げて、椛から離れた。
「すいません先輩。あ、どうぞお座りになって下さい」
「え、ええ。じゃあ、失礼します」
 椛が改めて座ると、お茶が目の前に差し出された。
「ありがと、柊君」
 受け取ると、雪也が冬香にもお茶を差し出している。受け取った冬香はそれに口をつけて、それから椛に顔を向けた。
「でも本当に驚いた。先輩が来るなんて思ってなかったから」
「私もだわ。……そっか。遠近はもう旧姓なのね」
 椛が楽しげに微笑む。冬香も同じように笑い、それから少しだけ肩を落とした。
「ええ。今は柊冬香ですから」
「……そっか。旦那さんのこと、お悔やみ申し上げます」
 椛も気付いたのだろう。表情を改めて、深々と頭を下げる。
「あ、いえ! ……もう、大丈夫ですから」
 冬香も苦い笑いを口元に貼り付けたままで、椛に頭を上げるよう身振りで示した。
「雪くんが一緒でしたから、ずいぶん助かってます」
 その表情は強がりではなく、本当にそう思っているように椛には見えた。だから、軽くからかうように言葉尻をとらえてみた。
「そう。……『雪くん』?」
 ちらりと椛の目が、冬香の隣、椛と冬香の間に座っていた雪也に向けられる。
「え!? あ、あの! いえ、その、えっと、雪也君が、ですね」
「いいわよ、もう。普段はそっちで呼んでるんでしょ?」
「う……はい」
 シュンとした冬香に椛が笑う。雪也が少し驚いた顔をしているのを見て、椛は首を傾げて見せた。
「どうかした? 柊君」
「……いえ。先生がそんな風に親しそうに笑ってるのは、初めて見たものですから」
「そう? そうかもね。前のは違っているし」
 クスクスと笑う椛に「そうですね」と雪也が答える。
「え、なに。なんですか? 二人だけで分かり合ってズルイです。雪くん、教えて」
「そんな大したことじゃないですよ」
「良いからー。教えて!」
 ぐいぐいと雪也の袖を引っ張っている冬香を見て、椛はもう一度笑った。


「雪くんの進路……ですか?」
 一息をついて始めた家庭訪問の面談で、冬香が戸惑い気味に問い返した。
「ええ。柊君は成績だって良いし、内申も良いわ。ただ、ご家庭の事情があるから、早めに考えておいたほうが良いんじゃないかと思って。……言いたくは無いけど、経済的に余裕があるわけでもないでしょう?」
 む、と冬香は言葉に詰まった。
 確かに冬香の収入と、雪也の微々たるアルバイトの給与だけが現在の柊家の収入である。進学を前にした学生を抱える家としては、それは決して潤沢な物ではないだろう。とはいえ、雪也の両親や夏彦が残した預金や生命保険は、ほぼ手付かずで残してある。特に柊の両親の遺志として、雪也を大学に進学させるのは冬香にとっては決定事項だった。ただ、そのために遺産を取り崩すのが良いことかどうかは悩むところだったが。
「私は、雪くんを進学させたいです。雪くんだって進学したいでしょう?」
 冬香にそう尋ねられた雪也は、小さく片眉を上げただけだった。
「雪くん……?」
「多分、一昨年なら迷わず進学とか言えたんでしょうけど。今は、正直よく分からないです」
 不安そうな冬香に雪也はそれだけを答えた。
「お金の心配なら大丈夫だよ? お義父さんたちのお金は、全然手を着けてないんだし。あれは、そのためのお金なんだよ?」
「……でも、さらに学生を続けるのがいいことなのか、悩みます。今だって、冬香さんの収入に僕が頼ってるのはおかしいのに」
「おかしくなんかないよ! 私は雪くんのお姉さんなんだから!」
 冬香の声が不機嫌に響いた。だが雪也は構わずに、さらに言葉を継いだ。
「それに冬香さんが再婚したら、もう柊とは関係なくなるでしょう? 再婚しないとしても、遠近に戻ればやっぱり関係なくなるじゃないですか」
「私は再婚なんかしないわよ! それに遠近にも戻らないわ」
「先のことは分からないでしょう?」
 雪也が肩を竦めて頭を振った。
「だから、ちょっと悩んでます。どう選んでも、冬香さんの選択肢を狭めそうだから」
「柊君……」
「雪くん……」
 椛と冬香が眉根を寄せる。確かに冬香が再婚なり柊の籍を抜くなりすれば、雪也との縁は切れるだろう。そうなった場合を考えれば、雪也が遺産に手を着けることに躊躇する理由も分からなくも無い。
 だが、冬香はそれに対して腹が立っていた。
「……雪くん。お話があります」
「は、い?」
 据わった目の冬香が、雪也に向き直った。
「あの、遠近?」
「椛先輩。今の私は柊です」
「え? あ、そ、そうね。えっと……冬香?」
 ぴしゃりと言い返された椛が、伺うように尋ねる。
「なんですか」
「ど、どうしたの?」
 ブルブルと震えている冬香に椛も雪也も戸惑っていた。何故急に不機嫌になったのか。というか、なんでこんな怒ってるのか。
「だって――まるで私が雪くんを捨てるみたいな言い方されたんですよ!?」
 ぐわっと冬香の顔が上がった。その表情は、怒っていた。怒りつつ、傷ついていた。
「私、そんな薄情な人間に見えますか? ううん、それが別の人に言われたならまだしも、雪くんがそんな風に思ってたなんて酷いです!」
「や、あの冬香さん?」
「あのね雪くん。私、これでも人の好き嫌いが激しい人間なの。そんな私が、雪くんと一緒に暮らしてるのが同情だけだと思う? そんな筈ないじゃない。私はちゃんと雪くんが好きだから暮らしてるの。私があなたを捨てるなんてありえないの」
「は、はぁ」
「分かってる!?」
「……多分」
「多分!?」
「分かりました! はい、納得しました!」
 バン、と音を立ててテーブルを叩かれ、雪也が背筋を伸ばして慌てて言い直す。それを聞いて、冬香は満足したように頷いた。
「分かればよし。……だから雪くん、ちゃんと進学を考えて。他にやりたい事があるなら、話は別だけど」
 言って、ちらりと椛を見る。
「先輩にちゃんと相談すれば大丈夫よ。先輩、こう見えて世話好きだから」
「……冬香」
 はぁ、と息をついて椛が笑う。
「言われなくても相談には乗るわ。担任なんだから。ね?」
「……ありがとうございます」
 雪也が二人に向かって頭を下げる。それを見て冬香は手を打ち合わせた。
「さ。じゃあ、もうこのお話はおしまい。ね、先輩。今日は飲みましょう!」
「え? あ、あの私はもうお暇を……」
「駄目ですよう。えっと、ビールでいいですか?」
「あの、冬香?」
 冷蔵庫を開けながら聞かれて、椛が助けを求めるように雪也を見た。
 だが雪也はと言えば、諦めたようにつまみになるスナックを棚から取り出している。
「ひ、柊君、あなたからも何か……」
「諦めて下さい。ああなったら、もう僕じゃ止められませんから」
 雪也がテーブルにつまみを広げている間に、冬香が機嫌よくビールの缶とグラスを持って戻ってきた。
「さ、飲みましょ飲みましょ。えっと、さすがに雪くんは駄目……ですよね?」
「当然ね」
「まあ、当然でしょうね」
 下から恐る恐ると見上げた冬香に、椛と雪也が揃って冷たく答える。その答えに、焦った顔でさらに冷蔵庫からペットボトルを持ってくる。
「じ、じゃあ雪くんはジュースね。さ、注いで注いで」
 注がれながら椛が雪也を見る。雪也はといえば、困ったものだと言う顔で自分のグラスにジュースを注いでいた。そしてちらりと椛を見て、肩を竦めて見せる。
 その仕草に椛も唇の端を緩めた。その間にグラスにビール注ぎ終えた冬香は、グラスを掲げて機嫌よく乾杯の音頭を上げるのだった。
「注ぎ終わった? じゃあ、予期せぬ再会と雪くんの進学にカンパーイ!」
「まだ進学しようと思っただけですけど、カンパーイ」
「……乾杯」
 チン、とグラスを合わせる音が柊家に響き渡った。


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「冬香さんと僕。」#8

/8

 柊雪也の家庭環境は複雑である。
 高校受験を目の前にした冬に、飛行機の事故で家族三人を一度に亡くした。係累はなく、彼は天涯孤独の身となった。同じく事故で亡くなった兄の妻――つまり義理の姉に引き取られ、今はそこで暮らしている。
 彼の身上調査票は、下手なドラマよりも悲劇的だった。
 深いため息を一つついて、宮川椛(もみじ)はファイルを閉じた。
 職員室の安いスチール椅子に体重を預けると、背もたれから悲鳴のような軋みが上がる。
 夕暮れの職員室には、他の教師達の姿は無い。部活の顧問に向かったか、帰ったか。椛とて早く帰れるならば帰りたい。受験生を担任しているわけでもないし、部活の顧問でもないのだから。しかし今日は駄目だ。生徒を呼び出しておいて、先に帰るなんて論外だ。
 とはいえ、帰ったところで何があるわけでもない。椛は、見るからにオールドミスめいた華の無い格好をしていた。古い型のスーツに、ひっつめ髪。眼鏡も十年近く愛用したフレームで、少々時代遅れの金属フレームである。化粧も最低限しかしておらず、見苦しくなければそれで良い、という格好だった。
 元より、華美な格好をする必要性がある環境ではない。学生達の規範となるのなら、なおさらである。学生時代から続いた恋人とは、二年ほど前に別れた。その後、会社の同僚と結婚したと聞いた。それを聞いて、傷つかなかったわけではない。自分が結婚相手として不適格だといわれたようなものだから。
 だが、それを顔に出すことはしなかった。椛は、そういう性格だった。
「――はぁ」
 もう一度、深いため息。今度は生徒の家庭環境のせいではなく、自分自身のせいだが。
 職員室の引き戸が開けられる音が、シンとした室内に響き渡った。
 振り返った椛の目に、室内に入ってきた東島夏奈の姿が映る。
 夏奈は室内を見回して、椛の座る席まで歩いてくる。
「なんですか、先生」
 ソワソワしている夏奈を一瞥して、椛は別のファイルを手に取った。
「呼ばれた理由は、大体分かってるんじゃなくて? 東島さん」
「――う」
 引き攣った顔をした夏奈に椛は厳しい顔を向けた。その手には一枚のプリントがある。
「昨日のテスト、酷い出来よ」
「い、いやぁ。昨日のは調子が悪くって」
 引き攣った笑い声のまま、夏奈が視線を逸らす。そんな夏奈を見て椛は深々とため息をついた。
「私もあまり言いたくは無いのだけれど。部活に精を出しすぎて、授業がおろそかにされるのは、好ましくないわ。このままだと部活動に制限をかけることも考えなくてはならないし」
「ウソっ!? じ、冗談だよね、先生」
「必要ならやるわ。部活は学校生活の全てではないの。人それぞれにウェイトの差はあるだろうけど、私は勉強に重みを置いてほしいと思ってる」
「でも、あたし、レギュラーだし……」
「レギュラーだから、成績が悪くても構わないって言いたい? でも、うちにスポーツ特待の制度は無いわね」
 ぐ、と夏奈の声が詰まる。椛は冷徹な顔でそんな夏奈を見上げた。
「別に、まったく練習するなとは言わないわ。……ただ、もう少しだけ勉強のウェイトを増やしてほしいの。あなたにその余裕すらないなら、練習量を減らすよう顧問の坂崎先生にお願いしなくてはならないけど」
「そんな……。せっかくインハイ出場が見えてきてるのに!」
「それとこれとは別の問題だわ。県大会での好成績は私も誇りに思ってる。でも、それとあなたの成績が低迷する事を引き換えにする気は無いの」
 取り付く島も無いとはこの事だろう。椛の言葉に、夏奈はぐっと唇を噛み締めた。
「先生はどうせ、部活なんかどうだって良いって思ってるんでしょ!」
「……そうは言わないけれど」
 意固地になったのを感じたのか、椛の声に疲れが混じる。
「ただ、学生の本分がなんなのかを、改めて私が言わなくてはいけないかしら?」
「――っ!」
 夏奈の顔が跳ね上がる。椛の怜悧な顔を睨みつけて、踵を返した。
「東島さん」
「勉強すればいいんでしょ! 分かったわよ! 分かりました!! じゃ、失礼します!!」
 足音をドカドカと立てて部屋を出て行く。その背中を見送って、椛はもう一度ため息をついた。
 どうしても、こうなってしまう。椛の口調は他人からすると冷たく感じるらしい。こちらとしては正論を言っているつもりなのだが、どうにも相手からすると糾弾されているように感じるようだ。それが分かっていても、変えようも無い。優しい言葉をかければ良いのか。しかし、言いたいことは言わなくてはならない。
 椛はもう一度ため息をついて、ファイルを閉じた。
 東島夏奈の成績低迷は、部活のレギュラーを獲得してからの物だ。元から、そう成績の良い子ではなかったが――それにしたって、こうも急降下の線を描かれては対応せざるを得ない。自分の担当教科だけなら、まだやりようもあった。だが彼女の成績急降下はほぼ全教科に渡っている。それぞれの担当教師から苦言を漏らされては、椛とて彼女を庇うことは難しい。
 東島夏奈は授業を聞かないわけでもなく、頭が悪いわけでもないのだろうに。だからこそ、椛からすれば何故理解できないのかが、理解できない。
「……致命的かしらね」
 教師として、それは欠陥なのだろう。そう思うと、もう一度深く息を吐いた。

「失礼します。……宮川先生?」
 職員室に入ってきた新しい生徒に、椛は顔を上げた。
「あら、柊君」
 先ほどまで見ていたファイルの少年が、プリントの山を持って教室へ入ってきた。
「どうしたの、それ」
「社会科のプリントなんですけど、教官室から職員室へ運んでくれと頼まれまして」
 苦笑いを浮かべた雪也に、椛も苦い笑いを浮かべた。
「高木先生ね。あなたも正直に引き受けなくても良かったのに」
「まあ、バイトまで時間ありましたし」
 言って雪也が高木という教師の机の上にプリントの山を置いた。机の上にあったマグカップを文鎮代わりにプリントの上に置くと、ふと椛へ視線を戻す。
「どうかしましたか?」
「え?」
 キョトンとした椛に、雪也は小さく首を傾げる。
「なんだか考え事をしているように見えたものですから」
「……いいえ、別に何も無いわ」
 頬杖をついていた椛の髪が夕日に透ける。いつもなら冷徹な印象を与える顔立ちも、柔らかい夕日に照らされると印象が随分と違って見える。
「そういえば、東島を呼び出してましたけど」
 ぐ、と雪也に視線が戻る。そこにはつい一瞬前の物憂げなそれは無い。そんな椛を見ながら、雪也が肩をすくめた。
「あれはバカなんで。あんまり気にしないほうが良いですよ。一点集中しか出来ないから」
「え?」
「部活やってる間はそれしか考えられないんですよ。切り替えが出来ないというか。テストの一週間前くらいから部活禁止にしておくと良いかも」
 それじゃあ、と言って雪也が踵を返す。
「あ、ちょっと、柊君?」
「はい?」
 足を止めて振り返った雪也に、椛が首を傾げて見せた。
「東島さんのこと、よく知ってるみたいだけど。付き合ってたりするの?」
 普段の彼女なら絶対に口にしないだろう、冗談交じりの言葉。口元には微笑みすら浮かんでいる。
 そんな椛に、雪也が心底迷惑そうな顔をした。
「まさか。アレの迷惑をよく被ってるから知ってるだけですよ」
「そういえば東島さんの家でアルバイトしてたっけ?」
「ええ。……本当に、アレはバカですよ」
「あまり他人をそう言うべきじゃないわね」
「じゃあ、愛すべきバカとして『ジャイアン』とでも呼びますか」
 キョトンとした後に、椛が堪えきれなくなったかのように笑い出した。
 涙目になって、身体を折り曲げて笑い続けている。
 呼吸が苦しいのか、ヒィヒィと時折息が漏れている。
 職員室に椛の笑い声が響き続けて数分が経った。ようやく呼吸が整ったのか、椛が顔を上げる。目の端に涙の雫が浮かんでいるのをそのままに、雪也を見上げた。
「……柊君、思ったよりも愉快な性格してるのね」
「宮川先生も、思ったより笑い上戸ですね」
 涙目になったままの椛を見て、肩を竦める。
「そうね。実はそうなの」
「普段からそうしてれば、もっと親しみやすいですよ。もったいない」
「もったいない?」
「笑うと可愛いんですね」
 は――と椛の言葉が詰まる。
 雪也は特に不思議なことを言ったつもりは無いのか、表情はいつもと変わらない。
「じゃあ、失礼します。そろそろバイトの時間なんで」
「――あ、ええ。……気をつけて」
「はい」
 一礼して職員室を出て行く。
 その背中を、宮川椛はただ見送った。


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