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「冬香さんと僕。」#13

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「失礼します」
 進路指導室の扉を開けて中に入ると、椅子に座っていた椛がこちらを見るのが分かった。
 椅子に座るよう促され、二人が座ると椛がまず冬香に対して一礼した。
「本日はお忙しいところ、ありがとうございます」
「へ? あ、いえいえ」
 椛の先手に呆けた返事をした冬香は、教師然とする椛をマジマジと見つめている。
「えっと……先輩?」
「それじゃあ、早速始めましょうか。とはいえ、先日の家庭訪問で進学の意志は確認しましたから、今日のところは柊君の学力や生活態度についてのお話程度になりますけど」
 資料を綴じているらしいファイルを開きながら、椛は冬香を無視して話を進めている。雪也はといえば、むしろこの状態の椛のほうが見慣れているので気にはならない。
「……何か?」
「え? あ、いえ、えーと、なんでもないです……」
 椛の毅然とした態度に冬香の声がしぼんでいくのが分かる。椛もそれに気付いたのか、気まずそうな顔を一瞬浮かべたのが見えた。
「――冬香さん。先生も、お仕事なんですから」
 雪也が短くそう言ったのも、冬香と椛が揃って気まずそうな顔をしていたからだろう。
 ちらりと椛の顔を窺った冬香は、苦笑いを浮かべている椛を見てほっと息を吐いた。
「そっか。そうですよね。すいません、先輩」
「……できれば『先輩』も止めて欲しいけれどね」
 深く息を一つ吐くと、冬香は表情を改めた。
「すいません。じゃあ、お願いします」
 背筋は伸び、表情も凛としている。恐らくは雪也の見たことのない仕事をしている時の冬香は、こんな顔をしているのだろう。そんなことを考えながら、雪也も椛に顔を向けた。
 椛もまた、同じように背筋を伸ばし、常の教師然とした顔をしている。
「柊君の成績なら、進学については今のところ問題はありません。当人の進学の意思は確認していますから、あとは進学先をどうするかですね。……何か希望はありますか?」
「そう、ですね。雪く……んんっ。雪也君の希望になるべく沿いたいと思ってますけど……雪也君?」
「正直、どこに進学するかまでは考えてません。……A大学とかで良いかなと思ってますけど」
「A大? どうして?」
「……家族が、そこに通っていたことがあったものですから」
「ふぅん。……まあ、A大となると今よりもう少し頑張ってもらわないと駄目よ?」
「――もう少し、視野を広げて考えてみます」
 椛は両手を挙げた雪也を一瞥し、冬香へと視線を移した。
「では、ともかく進路希望は進学という事で。具体的なところは、もう少し考えてからにしましょう。柊君の生活態度についてですが……」
 そこから続いたのは、普段の雪也の生活態度についての講評のようなものだった。
 特に問題はなし。それが椛の言葉である。
「実際、問題行動はなしです。教師としては助かる生徒、といえるわね。これはオフレコだけど」
 ファイルを閉じながら、椛はそう結んだ。
「当然です」
 誇らしげに胸を張る冬香の横で、雪也が小さく肩を竦めている。
「それでは以上という事で。本日はありがとうございました」
 一礼した椛に、冬香も深々と頭を下げる。
「こちらこそ、これからもよろしくお願いいたします」
 こうしていると、やはり冬香は大人なのだろう。雪也はそう思う。普段の彼女はむしろ子供っぽい行動を取ることが多いのだけれども。
「さて、じゃあ帰りましょうっか」
「はい。じゃあ先生。失礼します」
 雪也も一礼して指導室を出る。椛はといえば、まだ仕事が残っているのだろう。別のファイルを開いて、それに目を通しているようだった。
 人気の無くなった廊下を歩いて雪也は教室へと戻る。冬香はといえば、興味深そうに廊下から見える教室の中を一々覗き込んでいた。
「……荷物はこれでよし、と。冬香さん?」
「ん? もう良いの?」
「ええ。玄関で待っていてもらってもよかったんですけど。冬香さん、来客用の玄関から入ったんでしょう?」
「良いじゃない。なんか、学校っていう空間が久しぶりだから、楽しくて」
 そう言いながら、冬香は掲示板に貼ってあるプリントを眺めていた。
「そういう物ですか?」
「そういう物なの。雪くんはまだ在校生で、ここが普段の生活場所だからそう思わないだろうけどね」
 そう言って笑う冬香。確かにその感覚は雪也には理解できないだろう。
 不意に、自分と彼女の年齢差が、そこに横たわっていることに気付く。
「……そうですよね。冬香さんが高校生だったころって、もうずっと前――」
「雪くん。今日、ご飯抜きがいい?」
「なんでもありません」
 にっこりと笑っているはずの冬香の顔を、雪也は直視できなかった。


 時計の針が0時を指した頃、雪也は明かりを消して布団に潜り込んだ。
 外の通りを車が走る音がたまに聞こえてくる。雪也は小さく息を吐いて、天井を眺めた。
 学校から帰宅すると、いつもの通り冬香が食事の支度をし、その後片付けを雪也がした。風呂に入った後は、雪也は勉強を。冬香もテレビを眺めつつ、時折雪也の様子を見に来るという名目で構いに現れた。それは本当にいつも通りだった。
 だからこそ、こうして布団の中に入って暗闇の中にいると、思い出されるのかも知れない。
 今日の夕方のあれは失態だった。本当になんの前触れもなく自分を襲った発作を思い返し、雪也は苦々しく思っていた。自分の中で、あれはもう克服したとばかり思っていたが、その実さっぱり克服できていなかったらしい。冬香に抱きしめられていた自分を思い返すと、恥ずかしさで死にたくなった。
 冬香と同居したばかりの頃、何度かああして冬香に抱きしめられたことがあった。
 兄の結婚相手程度の関係性しかなく、遠近冬香なる人物について雪也は殆ど何も知らなかった。冬香もまた同じだろう。それでも彼女は、雪也を抱きしめていてくれた。
 それに、どれほど救われたか。
 ただ、年頃の男子として、ああいう風に接されるのが困ってしまうのも事実だった。
 他人の温度を感じることで落ち着くのは確かだが、それとは別な意味で落ち着かなくなってしまうのだ。いつしか発作も起きなくなり、冬香との距離は一定の間隔を保ったままで、過ごすことが出来るようになった。
 そうでなければ、こうして一緒に暮らすなんて、不可能だっただろう。
 彼女は兄の妻であり、自分とは本来なんの関係もない、他人なのだから。
 ぐるぐると思考は回る。
 いつしか時計の針は1時を指していた。
 真っ暗な部屋で、薄ぼんやりと見える天井と蛍光灯を眺めていると、襖が静かに開いたのに気付いた。
 暗がりの中を音を立てないように入ってくる人影。
 雪也はそれを怪訝に思いながら暫し眺め、諦めたように声をかけた。
「どうかしましたか、冬香さん」
「うぇ!? お、起きてたの!?」
 動揺した声は果たして柊冬香のものだった。雪也は上半身を起こして、暗闇を透かすように冬香を見る。
「ええ。なんだか寝付けなくて。……何か用でも?」
「あ、待って待って! 明かりつけなくて良いから!」
 言って、明かりをつけようと立ち上がろうとすると、冬香が慌ててそれを遮った。怪訝に思いつつ、雪也はもう一度布団に座りなおす。冬香は安堵したように息を吐き、それから雪也に少しだけにじり寄ったようだった。
「……冬香さん?」
「えっと、ね」
 先を促すように雪也が問いかけると、冬香は言葉を続けるのを躊躇うように先を濁す。ただ、距離だけが近づいている。
 心臓の音が、いやにうるさく聞こえる、と雪也は思った。
「――あの、どうかしたんですか?」
「あのね……」
 ぐ、と意を決したように冬香が雪也の手を取る。
 心臓の音が、今度はまったく聞こえなくなった。
 薄明かりの下、冬香はいつもの寝巻き姿のようだった。化粧を落とした素顔は、元々化粧っ気があまり無かったからなのか眉毛がなくなっているだとかそういう事は無い。
 石鹸と、うっすらと香水のものらしき良い香りがする。硬直した雪也を怪訝に思う様子もなく、冬香の手がぎゅっと彼の手を握り締める。
 細い指は温かい。その温度は今日、震える自分を暖めてくれたものだ。
「……今日は、一緒に寝よ?」
 その声はひどくか細いものだった。


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