「冬香さんと僕。」#14
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「……今日は、一緒に寝よ?」
かすれるほど小さくか細い声は、けれどもこれ以上ないほど強く雪也を揺さぶった。
「え?」
思わず呆けた声を上げた雪也に、冬香は俯いたまま握った手に力を入れる。自分から比べれば小さく細い指は、緊張のせいか震えていた。明かりの消された薄暗い部屋で、暗闇に慣れた目がぼんやりと彼女の姿形を捉えている。
確かシルク地と記憶している寝巻きは夜闇の中でぼんやりと輝いて、冬香の華奢な体つきをこれ以上ないほど艶かしく見せていた。ごくり、と思わず唾を飲み込んだ自分に驚き、雪也は必死に思考を立て直そうとする。
「――あの、冬香さん?」
心臓の音が聞こえない。むしろ、なんの音も聞こえない。
うるさすぎて、知覚が飛んでしまったのか。
雪也が、辛うじて出せた声は、こんな情けない声でしかなくて。
車が外を通り過ぎる音がしているはずなのに、雪也にそれは聞こえない。ただ、目の前にぺたりと座っている女性の声しか聞こえない。
姉だ。この人は、自分にとって姉なのだ。そうでなくてはならないのだ。
雪也の中で、そう言い続ける自分がいる。そもそも、この人にとって自分は、夫の弟でしかないのだから。
思ったよりも抜けた所があったり、思った以上に普段の生活態度がチャランポランだったりする人は、いつの間にか保護者から被保護者のような気分に雪也をさせていたのかも知れない。けれども今日、気付かされた。それでも彼女は、やはり自分にとって保護者であったのだ、と。
薄闇の向こうから冬香の手が伸びてくる。
指先が頬を撫でるように伝い、形を確かめるように下へと降りていく。
「……雪くん」
白い歯が暗闇の中でぼんやりと光る。
心臓はもしかしたら、あまりの五月蝿さに体から飛び出したのかも知れない。
まったく何も考えられないまま、そんな益体も無いことを思いつく。
「なんで」
「――だって」
僅かな逡巡。雪也の手を握る彼女の手に力が篭もる。
指を絡めるようにして、距離がさらに縮まる。
「雪くん、辛そうにしてたから」
そのまま引き寄せられる。
胸元で頭を抱きかかえるように、抱きしめられる。
夕方のそれと同じこと。
ただ違うことがあるとしたら、ここが自分の部屋で、彼女が薄い絹一枚でいて、そして今が夜だという事。
息が止まる。冬香の体温が心地よくて、けれども同時に自分の中にある何かが騒ぎ立てているのが分かるから。冬香はそれに気付いていないのか。きっとそうなのだろう。雪也は結論付ける。
「……大丈夫ですから」
「ダメ」
ぎゅ、と抱きしめられる力が強まる。たったそれだけで、雪也は動く事が出来なくなる。
むしろ呼吸する事すら、辛い。
「あの、放して……」
「ダメったら、ダメ」
抱え込まれたままの姿勢が割と辛いんだけどなぁ、などと考えている辺り、雪也もギリギリな線で踏みとどまっているのかも知れない。
時計の針がカチリと音を立てて進むのが見えた。
「……冬香さん。明日も仕事でしょう?」
「雪くんだって学校だよ」
「ですよね」
「うん」
「……じゃあ、早く寝るべきだと思うんですよ」
「そうだね」
「……ええ」
「じゃあ……寝よ?」
「……できれば一人で寝たいんですが」
「ダメ」
「……延々と続くんですか、もしかして」
出来の悪いコンピュータRPGじゃあるまいし。思わずそう呟いた雪也に、冬香は微笑む。
「雪くんがちゃんと寝られるように、私が傍に居てあげるから」
むしろそっちのほうが問題なんですよ、と言えたらどんなにか良いだろう。彼女のそれが100%善意だと理解しているからこそ、雪也はそれを口に出来ないのだ。あの夕方の一件で彼女の中で自分がまだ子供だという認識が生まれたのだろう。
そうでなければ、こんな行動を彼女がとるはずが無い。
「……分かりました」
もしも彼女がそう思っているのなら。
自分に出来るのは、彼女が思う『子供』で居ることしかないのだろう。
冬香は嬉しそうに微笑むと、いそいそと布団の中に潜り込んだ。
「寒くない?」
「大丈夫ですよ。……もしかして、ずっと手は繋いだままなんですか?」
布団の中でも放されない手に、雪也は思わず訊ねた。すると冬香は当然のことのように「うん」と頷いて返した。
「……はぁ」
小さく溜め息を吐いて、目を閉じる。
すぐ傍に、他人の温度がある。それは不快なものではなくて、むしろ落ち着きを奪うもので。それでも、その動揺を表には出せなくて。
無理やりに目を閉じて、隣にいる人を頭から締め出そうとする。
「雪くん。寝た?」
「……今、横になったばかりの人間に言う台詞じゃないですね」
あはは、と小さく笑った冬香は、少しだけ距離を詰めたようだった。
「寒いですか?」
「ん。ちょっと」
「……やっぱり、自分の布団で寝るほうが」
ぐに、と抓られた。
「なんでもありません。おやすみなさい」
もう一度目を閉じて、ふ、と息を吐く。
冬香も目を閉じたようだった。
心臓の鼓動が聞こえるようになる。それはまだ普段よりも随分と早く脈打っているけれども、それでも寝るくらいはなんとかなりそうだった。
意識が不意に落ちる。その最中、冬香が身動ぎしたような気がした。
雪也が眠りに落ちたのを確認して、冬香は少しだけ体を動かした。
いつだったか、酔っ払って彼の布団で眠っていた時のことを思い出す。
照れくさそうに嫌がった彼に、無理やりに同衾を迫った理由は簡単だ。夕方に見せた雪也の発作。あれがまた起きた時のことを考えたのだ。
そう。それが理由だったはずだった。
けれど冬香は、目を閉じて寝息を立てて眠る雪也を見つめているうち、それ以外の何かが胸の裡から湧き上がるのを感じていた。
繋いだ手から伝わる温度。
抱きしめた時に伝わった、心臓の鼓動。
「……雪くん」
夫の弟。義理の弟。被保護者。それが彼。それ以外ではない。それ以外ではありえない。
そうでなければ―――。
暗闇の奥で眠る雪也の顔には、夏彦の――彼の兄の面影は無い。だっていうのに。
「……ッ」
自分は何をしているのだろう。何をしてしまったのだろう。
唇を手で押さえながら、冬香はそう考えていた。
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