「冬香さんと僕。」

「冬香さんと僕」#24

さて、長々と続きましたこのお話、このような仕儀と相成りました。
 
皆々様、どうぞ最後までお付き合い下さい。
 
 
 
 
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「冬香さんと僕。」#23

うああ蒸し暑い……。
そんなわけでコメントレスでございます。
 
>思春期
雪也は達観気味な子ですが、やっぱりまだまだなところがあるという事で…。
 
■LRさん
そんなわけで待て次回!という展開になりました。
私もまさかこんなことになるとは思ってもみなかったのです…。
 
 
※6/24 23:57追記 
 コメント欄が閉じられていたので直しました。……特に何かを変えたつもりは無かったのですが。はてさて。
 
 
 

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「冬香さんと僕。」#22

コメントありがとうございましたー。レスでーす。
 
>椛さん、いい女過ぎる
椛ルートにはセーブデータをロードして下さい(笑)
 
>フェード会うととも思えない
椛ルートには(同上)
 
■LRさん
>だぶる先生らいふの時雨さんをイメージ
ビジュアル的には時雨さんのイメージがありますが、中身的には麻美さんだったりします。
正直だなぁ私……。
 
 
 

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「冬香さんと僕。」#21

コミックマーケット74に当選しました。
8月17日(日)西ホール「る」31bにてぐんにゃりとしていると思います。
頒布予定は『冬香さんと僕。』リライト+αになります。
最寄にお越しの際は思い出していただけると幸いです。


椛の株が急上昇している件については、正直作者の贔屓が入ったとか、NGな恋の麻美の影響とか色々あるのですがそれはそれとして愛される駄目な人になっていてくれて嬉しい限りです。

では、コメントのレスを。

>うかつ過ぎ
椛は油断しているとどうしようもない人という事で(苦笑)

■ぬむさん
>綺麗なお姉さんっていいですよねぇ…。
きれいなお姉さんは大好きです。不器用なお姉さんとかも好物です。


■fillさん
>今回で結末が怖い展開に…
ナイスボート!とかにはなりませんのでご安心を。

■かに鍋さん
>宮川椛女史のターン
ずっと俺のターン!とか言わない人なので助かっています。


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「冬香さんと僕。」#20

さて、あまり気付かれていないかも知れませんが、本サイトの左サイドバーにHTMLまとめ版へのリンクを追加しております。という事で、1~15までまとめた物をアップしました。
最近来たよという方や、読み返したいと言ってくださる方はこちらをご利用くださると可読性が高いと思います。
…blog形式はアップロードが楽だけど、過去分を読む時が面倒なのですよね……なんか良い手が無いものか。

さて、コメントありがとーございます、という事で恒例のレスを。

>椛の見た目年齢がどんどん下がって
だがこれでも2●歳なのですよ……。おかしいなぁ。

■おひねりさん
はじめまして。コメントありがとうございます。

>駄目なおねーさんてなんでこんなに魅力的
カッチリした人が見せる油断とか、きっといわゆるギャップ萌という奴なのではないかと(いや分からんですが)

■LRさん
>そしてハーレムに…
きっと雪也は胃に穴を開けると思います(苦笑)

>椛さんは、惚れた男が出来ると駄目になるタイプ
まさにそれであります。加速度をつけて駄目になるタイプ。
冬香は男を堕落させ、椛は自分が堕落するタイプかなーと。
 
 

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「冬香さんと僕。」#19

マクロスFが「ずっとシェリルのターン!」になっているのが楽しくてなりません。
歌と三角関係と芸能界とパイロットって、すごい組み合わせですよね。

>俺はこれが楽しくてなりません

ありがとうございます。私も楽しくてなりません。
今書いている別のも、楽しく書いております。
駄目な女の人を書いていると楽しいです。


>椛さん暴走しすぎ

椛、最初はもっとカッチリしたお局様ポジションだったのに…などと思ってしまいます。

■風見鶏さん
>想像以上の暴走っぷり
冬香のつき抜けぶりには負けてしまうのですけれども、椛もいい具合に駄目な人になってきています。作者の趣味が露骨に出すぎていて、ちょっと困り者なのですが。

■LRさん
>よく耐えた
>眼鏡っ娘描写

雪也の行動については「このヘタレめ」「なぜそこで喰わない」と非常に怒られました。
でもやっぱり、最後の一線を越えるまでの一進一退が面白いんじゃんよねえ?と思ってしまうのです。


そしてお知らせ。
夏のコミケに申し込んでいるのですが、当選した場合は「冬香さんと僕。」のリライト+αをオフセット印刷で頒布予定です。受からなかったら造らないんですけれども。
もしもご興味がありましたら、6月以降も当サイトを覗いてみてください。
なお、webでの連載はきちんとwebで完結いたしますのでご安心ください。

ちなみにリライト+αは、ちょっと18禁要素が追加だとか、その後だとかその前だとかのお話を含めたお話になる予定です。

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「冬香さんと僕。」#18

マクロスFが楽しくてなりません。

■LRさん
サイズについては部外秘という事で……。
雪也は自分の家庭の事情については、殆どの人に話していません。
学校の教師と、バイト先くらいだったりします。

■風見鶏さん
暴走特急は誰にも止められないのですが、自分自身が悶絶するのが問題です。

■kenpさん
モラトリアム万歳です。
話の進度については、ちょっとこっから加速します。

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「冬香さんと僕。」#17

なんだか急に閲覧数が増えて何が起きたかと思ったら、紅夢さんの所で紹介していただいていたようです。
ちょっとびっくりしました。COCHA-DO経由なので、紹介していただいていた事にも当初気付きませんでした。
ありがとうございました。

そんなわけでレスなど。

■LRさん
>それを読んで読者(私)はニヤニヤします。
ニヤニヤニヤニヤとさせるというか書いている最中にニヤニヤしている作者が一番危ない気がします。
書いてるところは人には見せられないです。ホント。


■風見鶏さん
>個人的には秋乃サンも大好きです
秋乃は少ない癒し系(死語)キャラとして登場しているのですが、おかげで妹の影が薄くてなりません。
秋乃自体は積極的にお話に絡んでこようとはしない人なのですが、裏設定が色々あったりなかったり。


そして急転直下な続きとなります。

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「冬香さんと僕。」#16

GWはぐったりする予定です。カレンダー通りの休日って不便だなぁ。

>べりぃないすニヤニヤ!
ニヤニヤする為だけに書いていると言っても過言では無いので、ニヤニヤしてくれると嬉しいです。


>やばい、冬香さんにはまりそう…。
こんな人が身近にいたら、きっと駄目になる。そんな自信があります。


■LRさん
>冬香さんはさりげなく姉として駄目に成って来ていて
>椛さんは思考が教師としては駄目になってきていて
椛の駄目っぷりの加速度のつき方は、自分でも予想以上のものでした…。


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「冬香さんと僕。」#15

/15

 宮川椛は戸惑っていた。彼女の視線は窓際に向いている。
 そこには机に突っ伏している柊雪也の姿があった。隣に座っている生徒も、怪訝そうに隣を見ている。普段の雪也は優等生といって良く、少なくともあのような見るからに居眠りする様子は見せなかったはずだ。それは周囲のクラスメート達も感じているのか、奇異の目で彼を見ている。
「……んんっ」
 咳払いを一つして生徒達の視線を前に集めなおすと、椛は雪也の隣の生徒に彼を起こすよう指示をした。肩を揺すられて顔を上げた雪也に、椛は短く後で職員室へ来るようにと伝えた。

「一体どうしたの? 具合でも悪いの?」
「いえ……」
 職員室に現れた雪也に、椛は開口一番そう訊ねた。
 言葉短く否定した雪也は、ただ一言居眠りについて謝罪した。しかし椛には正直、居眠り自体は目くじらを立てるほどではないと思っていたのだ。少なくとも、雪也に関しては、だが。
「目が赤いわ。……もしかして、あまり寝てないの?」
「……いえ」
 言葉は少ない。けれども、答えるまでの間が真実を示していた。
「もしかして、進路のことで冬香と何か揉めたの?」
「ああ、それは無いです」
 三者面談をした翌日のこの状況に、もしやと思って訊ねてみれば、それは違うと即答する。椛は正直なところ、なんと判断すれば良いのかを図りかねていた。
 雪也は表面的には変わりなく見える。
 けれどもやはり、どこかぼんやりとしているのだ。
「はぁ……。分かったわ。別に具合が悪いわけじゃないのね?」
「はい」
 椛が眉間に皺を寄せたまま、頷いた。
「分かったわ。じゃあ、行ってよし。でも他の先生の授業中は居眠りしないようにね」
「気をつけます。じゃあ、失礼します」
 職員室を出て行った雪也の背中を見送って、椛はもう一度溜め息を吐いた。
 雪也が何か別のことに気をとられている事は一目瞭然だった。あれではたとえ起きていたとしても、授業内容は頭には入らないだろう。
 一体なにがあったのか。昨日は特に何も変わりなかったというのに。
 雪也のあの様子は、ただ事では無いだろう。普段の彼は、あんな風に弱みをさらけ出すことを嫌っている。それくらいは担任として把握していた。
 そして今は、担任としてしか雪也に接する事が出来ないという事も。


  †   †   †


 目覚まし時計のベルが鳴ろうという寸前、布団から伸びた手がそれを止めた。
 カーテンの向こうから朝陽が差し込んでいる。明るい光に照らされて、眠りこけている隣の女性の顔がよく見えるようになった。
 もう片方の手は動かすに動かせないままで、その不自由な姿勢のせいか身体が痛い。
 つながれた手は、解こうと思えば多分ほどけるだろう。ただ、そうする事が出来なかっただけで。
 ぼんやりと、自分の隣で横になっている義姉を眺め雪也は心の中で呟いた。
(……結局、眠れなかった)
 自分が眠ったと思った彼女の夜半の行動を思い返し、雪也は目を閉じる。
 あの一瞬。自分の身体が動かなかったことは救いだった。もしもあの時、まだ彼が起きていたことに彼女が気付いたとしたら、どうなっていただろう。今はこうして幸せそうな顔で寝こけている彼女は、どうしていただろうか。
 喪失は今や雪也にとって、もっとも恐れるべきことだった。
 果たして、彼女の行動をどう受け取るべきなのかすら、混乱した頭では考えはうまくまとまらない。
 そもそも、あんな真似をしておいて、あっさり眠るとはどういうつもりなのか。
 どうしたものかともう一度目を開き、冬香の顔を見た。
 口が半開きになり、くかー、などと呑気な寝息を立てている彼女に思わず苦笑が浮かぶ。
 彼女のあの行動は、家族への親愛の情なのだろう。雪也にはそれが正解だと思えてきた。冬香の指には今も兄が贈った結婚指輪が輝いている。そして彼女にとって自分は、その弟なのだから。常日頃から彼女が言うように、きっと自分は彼女にとって「弟」なのだ。
 そうでなければ、一緒にいる理由は無くなってしまう。
 もぞもぞと動いた冬香がうっすらと目を開いた。
「……んぅ?」
「おはようございます」
 冬香の目がぼんやりとしたままで、そのまま数秒、雪也の顔を直視し続けていた。
「雪くん……?」
「はい」
 まだ意識がはっきりしないのか、冬香の反応は鈍い。
 雪也は小さく笑って、繋がれた手を握り返してみる。
「そろそろ放してくれないと、二人とも遅刻しますよ」
「え!?」
 がばっと冬香が起き上がり、時計を掴んだ。針は彼女がいつも起きる時刻より進んでいる。そして、多分朝食を作る余裕は無い。
「う、嘘!」
「すいません。時計のセットを忘れていたみたいで」
 雪也がしれっと言うのを聞きながら、冬香は跳ね起きた。
「えーと! と、とりあえず急がないと!」
「ですね」
 バタバタと部屋を出て行こうとした冬香が、不意に足を止めた。
 ちらりと振り返って、今の今まで自分が寝ていた場所。すなわち、雪也と布団を見た。
「……えっと、あのね?」
「はい?」
 雪也の態度はいつもと変わらない。怪訝そうに自分を見返した雪也に、冬香はただ「にへら」と笑った。
「ううん、なんでもない。おはよ、雪くん」
「おはようございます。冬香さん」
 部屋を出て行った冬香を見送って、雪也が深くため息を吐いたことに彼女は気付かなかった。
 そして、部屋を出て洗面所へ駆け込んだ冬香が同じように深く溜め息を吐いたことに、雪也は気付かなかった。


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「冬香さんと僕。」#14

/14

「……今日は、一緒に寝よ?」
 かすれるほど小さくか細い声は、けれどもこれ以上ないほど強く雪也を揺さぶった。
「え?」
 思わず呆けた声を上げた雪也に、冬香は俯いたまま握った手に力を入れる。自分から比べれば小さく細い指は、緊張のせいか震えていた。明かりの消された薄暗い部屋で、暗闇に慣れた目がぼんやりと彼女の姿形を捉えている。
 確かシルク地と記憶している寝巻きは夜闇の中でぼんやりと輝いて、冬香の華奢な体つきをこれ以上ないほど艶かしく見せていた。ごくり、と思わず唾を飲み込んだ自分に驚き、雪也は必死に思考を立て直そうとする。
「――あの、冬香さん?」
 心臓の音が聞こえない。むしろ、なんの音も聞こえない。
 うるさすぎて、知覚が飛んでしまったのか。
 雪也が、辛うじて出せた声は、こんな情けない声でしかなくて。
 車が外を通り過ぎる音がしているはずなのに、雪也にそれは聞こえない。ただ、目の前にぺたりと座っている女性の声しか聞こえない。
 姉だ。この人は、自分にとって姉なのだ。そうでなくてはならないのだ。
 雪也の中で、そう言い続ける自分がいる。そもそも、この人にとって自分は、夫の弟でしかないのだから。
 思ったよりも抜けた所があったり、思った以上に普段の生活態度がチャランポランだったりする人は、いつの間にか保護者から被保護者のような気分に雪也をさせていたのかも知れない。けれども今日、気付かされた。それでも彼女は、やはり自分にとって保護者であったのだ、と。
 薄闇の向こうから冬香の手が伸びてくる。
 指先が頬を撫でるように伝い、形を確かめるように下へと降りていく。
「……雪くん」
 白い歯が暗闇の中でぼんやりと光る。
 心臓はもしかしたら、あまりの五月蝿さに体から飛び出したのかも知れない。
 まったく何も考えられないまま、そんな益体も無いことを思いつく。
「なんで」
「――だって」
 僅かな逡巡。雪也の手を握る彼女の手に力が篭もる。
 指を絡めるようにして、距離がさらに縮まる。
「雪くん、辛そうにしてたから」
 そのまま引き寄せられる。
 胸元で頭を抱きかかえるように、抱きしめられる。
 夕方のそれと同じこと。
 ただ違うことがあるとしたら、ここが自分の部屋で、彼女が薄い絹一枚でいて、そして今が夜だという事。
 息が止まる。冬香の体温が心地よくて、けれども同時に自分の中にある何かが騒ぎ立てているのが分かるから。冬香はそれに気付いていないのか。きっとそうなのだろう。雪也は結論付ける。
「……大丈夫ですから」
「ダメ」
 ぎゅ、と抱きしめられる力が強まる。たったそれだけで、雪也は動く事が出来なくなる。
 むしろ呼吸する事すら、辛い。
「あの、放して……」
「ダメったら、ダメ」
 抱え込まれたままの姿勢が割と辛いんだけどなぁ、などと考えている辺り、雪也もギリギリな線で踏みとどまっているのかも知れない。
 時計の針がカチリと音を立てて進むのが見えた。
「……冬香さん。明日も仕事でしょう?」
「雪くんだって学校だよ」
「ですよね」
「うん」
「……じゃあ、早く寝るべきだと思うんですよ」
「そうだね」
「……ええ」
「じゃあ……寝よ?」
「……できれば一人で寝たいんですが」
「ダメ」
「……延々と続くんですか、もしかして」
 出来の悪いコンピュータRPGじゃあるまいし。思わずそう呟いた雪也に、冬香は微笑む。
「雪くんがちゃんと寝られるように、私が傍に居てあげるから」
 むしろそっちのほうが問題なんですよ、と言えたらどんなにか良いだろう。彼女のそれが100%善意だと理解しているからこそ、雪也はそれを口に出来ないのだ。あの夕方の一件で彼女の中で自分がまだ子供だという認識が生まれたのだろう。
 そうでなければ、こんな行動を彼女がとるはずが無い。
「……分かりました」
 もしも彼女がそう思っているのなら。
 自分に出来るのは、彼女が思う『子供』で居ることしかないのだろう。
 冬香は嬉しそうに微笑むと、いそいそと布団の中に潜り込んだ。
「寒くない?」
「大丈夫ですよ。……もしかして、ずっと手は繋いだままなんですか?」
 布団の中でも放されない手に、雪也は思わず訊ねた。すると冬香は当然のことのように「うん」と頷いて返した。
「……はぁ」
 小さく溜め息を吐いて、目を閉じる。
 すぐ傍に、他人の温度がある。それは不快なものではなくて、むしろ落ち着きを奪うもので。それでも、その動揺を表には出せなくて。
 無理やりに目を閉じて、隣にいる人を頭から締め出そうとする。
「雪くん。寝た?」
「……今、横になったばかりの人間に言う台詞じゃないですね」
 あはは、と小さく笑った冬香は、少しだけ距離を詰めたようだった。
「寒いですか?」
「ん。ちょっと」
「……やっぱり、自分の布団で寝るほうが」
 ぐに、と抓られた。
「なんでもありません。おやすみなさい」
 もう一度目を閉じて、ふ、と息を吐く。
 冬香も目を閉じたようだった。
 心臓の鼓動が聞こえるようになる。それはまだ普段よりも随分と早く脈打っているけれども、それでも寝るくらいはなんとかなりそうだった。
 意識が不意に落ちる。その最中、冬香が身動ぎしたような気がした。


 雪也が眠りに落ちたのを確認して、冬香は少しだけ体を動かした。
 いつだったか、酔っ払って彼の布団で眠っていた時のことを思い出す。
 照れくさそうに嫌がった彼に、無理やりに同衾を迫った理由は簡単だ。夕方に見せた雪也の発作。あれがまた起きた時のことを考えたのだ。
 そう。それが理由だったはずだった。
 けれど冬香は、目を閉じて寝息を立てて眠る雪也を見つめているうち、それ以外の何かが胸の裡から湧き上がるのを感じていた。
 繋いだ手から伝わる温度。
 抱きしめた時に伝わった、心臓の鼓動。
「……雪くん」
 夫の弟。義理の弟。被保護者。それが彼。それ以外ではない。それ以外ではありえない。
 そうでなければ―――。
 暗闇の奥で眠る雪也の顔には、夏彦の――彼の兄の面影は無い。だっていうのに。
「……ッ」
 自分は何をしているのだろう。何をしてしまったのだろう。
 唇を手で押さえながら、冬香はそう考えていた。

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「冬香さんと僕。」#13

/13

「失礼します」
 進路指導室の扉を開けて中に入ると、椅子に座っていた椛がこちらを見るのが分かった。
 椅子に座るよう促され、二人が座ると椛がまず冬香に対して一礼した。
「本日はお忙しいところ、ありがとうございます」
「へ? あ、いえいえ」
 椛の先手に呆けた返事をした冬香は、教師然とする椛をマジマジと見つめている。
「えっと……先輩?」
「それじゃあ、早速始めましょうか。とはいえ、先日の家庭訪問で進学の意志は確認しましたから、今日のところは柊君の学力や生活態度についてのお話程度になりますけど」
 資料を綴じているらしいファイルを開きながら、椛は冬香を無視して話を進めている。雪也はといえば、むしろこの状態の椛のほうが見慣れているので気にはならない。
「……何か?」
「え? あ、いえ、えーと、なんでもないです……」
 椛の毅然とした態度に冬香の声がしぼんでいくのが分かる。椛もそれに気付いたのか、気まずそうな顔を一瞬浮かべたのが見えた。
「――冬香さん。先生も、お仕事なんですから」
 雪也が短くそう言ったのも、冬香と椛が揃って気まずそうな顔をしていたからだろう。
 ちらりと椛の顔を窺った冬香は、苦笑いを浮かべている椛を見てほっと息を吐いた。
「そっか。そうですよね。すいません、先輩」
「……できれば『先輩』も止めて欲しいけれどね」
 深く息を一つ吐くと、冬香は表情を改めた。
「すいません。じゃあ、お願いします」
 背筋は伸び、表情も凛としている。恐らくは雪也の見たことのない仕事をしている時の冬香は、こんな顔をしているのだろう。そんなことを考えながら、雪也も椛に顔を向けた。
 椛もまた、同じように背筋を伸ばし、常の教師然とした顔をしている。
「柊君の成績なら、進学については今のところ問題はありません。当人の進学の意思は確認していますから、あとは進学先をどうするかですね。……何か希望はありますか?」
「そう、ですね。雪く……んんっ。雪也君の希望になるべく沿いたいと思ってますけど……雪也君?」
「正直、どこに進学するかまでは考えてません。……A大学とかで良いかなと思ってますけど」
「A大? どうして?」
「……家族が、そこに通っていたことがあったものですから」
「ふぅん。……まあ、A大となると今よりもう少し頑張ってもらわないと駄目よ?」
「――もう少し、視野を広げて考えてみます」
 椛は両手を挙げた雪也を一瞥し、冬香へと視線を移した。
「では、ともかく進路希望は進学という事で。具体的なところは、もう少し考えてからにしましょう。柊君の生活態度についてですが……」
 そこから続いたのは、普段の雪也の生活態度についての講評のようなものだった。
 特に問題はなし。それが椛の言葉である。
「実際、問題行動はなしです。教師としては助かる生徒、といえるわね。これはオフレコだけど」
 ファイルを閉じながら、椛はそう結んだ。
「当然です」
 誇らしげに胸を張る冬香の横で、雪也が小さく肩を竦めている。
「それでは以上という事で。本日はありがとうございました」
 一礼した椛に、冬香も深々と頭を下げる。
「こちらこそ、これからもよろしくお願いいたします」
 こうしていると、やはり冬香は大人なのだろう。雪也はそう思う。普段の彼女はむしろ子供っぽい行動を取ることが多いのだけれども。
「さて、じゃあ帰りましょうっか」
「はい。じゃあ先生。失礼します」
 雪也も一礼して指導室を出る。椛はといえば、まだ仕事が残っているのだろう。別のファイルを開いて、それに目を通しているようだった。
 人気の無くなった廊下を歩いて雪也は教室へと戻る。冬香はといえば、興味深そうに廊下から見える教室の中を一々覗き込んでいた。
「……荷物はこれでよし、と。冬香さん?」
「ん? もう良いの?」
「ええ。玄関で待っていてもらってもよかったんですけど。冬香さん、来客用の玄関から入ったんでしょう?」
「良いじゃない。なんか、学校っていう空間が久しぶりだから、楽しくて」
 そう言いながら、冬香は掲示板に貼ってあるプリントを眺めていた。
「そういう物ですか?」
「そういう物なの。雪くんはまだ在校生で、ここが普段の生活場所だからそう思わないだろうけどね」
 そう言って笑う冬香。確かにその感覚は雪也には理解できないだろう。
 不意に、自分と彼女の年齢差が、そこに横たわっていることに気付く。
「……そうですよね。冬香さんが高校生だったころって、もうずっと前――」
「雪くん。今日、ご飯抜きがいい?」
「なんでもありません」
 にっこりと笑っているはずの冬香の顔を、雪也は直視できなかった。


 時計の針が0時を指した頃、雪也は明かりを消して布団に潜り込んだ。
 外の通りを車が走る音がたまに聞こえてくる。雪也は小さく息を吐いて、天井を眺めた。
 学校から帰宅すると、いつもの通り冬香が食事の支度をし、その後片付けを雪也がした。風呂に入った後は、雪也は勉強を。冬香もテレビを眺めつつ、時折雪也の様子を見に来るという名目で構いに現れた。それは本当にいつも通りだった。
 だからこそ、こうして布団の中に入って暗闇の中にいると、思い出されるのかも知れない。
 今日の夕方のあれは失態だった。本当になんの前触れもなく自分を襲った発作を思い返し、雪也は苦々しく思っていた。自分の中で、あれはもう克服したとばかり思っていたが、その実さっぱり克服できていなかったらしい。冬香に抱きしめられていた自分を思い返すと、恥ずかしさで死にたくなった。
 冬香と同居したばかりの頃、何度かああして冬香に抱きしめられたことがあった。
 兄の結婚相手程度の関係性しかなく、遠近冬香なる人物について雪也は殆ど何も知らなかった。冬香もまた同じだろう。それでも彼女は、雪也を抱きしめていてくれた。
 それに、どれほど救われたか。
 ただ、年頃の男子として、ああいう風に接されるのが困ってしまうのも事実だった。
 他人の温度を感じることで落ち着くのは確かだが、それとは別な意味で落ち着かなくなってしまうのだ。いつしか発作も起きなくなり、冬香との距離は一定の間隔を保ったままで、過ごすことが出来るようになった。
 そうでなければ、こうして一緒に暮らすなんて、不可能だっただろう。
 彼女は兄の妻であり、自分とは本来なんの関係もない、他人なのだから。
 ぐるぐると思考は回る。
 いつしか時計の針は1時を指していた。
 真っ暗な部屋で、薄ぼんやりと見える天井と蛍光灯を眺めていると、襖が静かに開いたのに気付いた。
 暗がりの中を音を立てないように入ってくる人影。
 雪也はそれを怪訝に思いながら暫し眺め、諦めたように声をかけた。
「どうかしましたか、冬香さん」
「うぇ!? お、起きてたの!?」
 動揺した声は果たして柊冬香のものだった。雪也は上半身を起こして、暗闇を透かすように冬香を見る。
「ええ。なんだか寝付けなくて。……何か用でも?」
「あ、待って待って! 明かりつけなくて良いから!」
 言って、明かりをつけようと立ち上がろうとすると、冬香が慌ててそれを遮った。怪訝に思いつつ、雪也はもう一度布団に座りなおす。冬香は安堵したように息を吐き、それから雪也に少しだけにじり寄ったようだった。
「……冬香さん?」
「えっと、ね」
 先を促すように雪也が問いかけると、冬香は言葉を続けるのを躊躇うように先を濁す。ただ、距離だけが近づいている。
 心臓の音が、いやにうるさく聞こえる、と雪也は思った。
「――あの、どうかしたんですか?」
「あのね……」
 ぐ、と意を決したように冬香が雪也の手を取る。
 心臓の音が、今度はまったく聞こえなくなった。
 薄明かりの下、冬香はいつもの寝巻き姿のようだった。化粧を落とした素顔は、元々化粧っ気があまり無かったからなのか眉毛がなくなっているだとかそういう事は無い。
 石鹸と、うっすらと香水のものらしき良い香りがする。硬直した雪也を怪訝に思う様子もなく、冬香の手がぎゅっと彼の手を握り締める。
 細い指は温かい。その温度は今日、震える自分を暖めてくれたものだ。
「……今日は、一緒に寝よ?」
 その声はひどくか細いものだった。


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「冬香さんと僕。」#12

/12

 柊雪也は頬杖をついて、窓の外をぼんやりと眺めていた。
 夕方になった教室には生徒の姿は数えるほどしか残っていない。廊下からはブラスバンド部のチューニングの音や、運動部の掛け声が響いてくる。
 手持ち無沙汰そうにクラスメートと話している数人の生徒は、別に好きこのんで教室に残っているわけではなかった。彼らは、今日、三者面談の対象となった生徒達だった。
 順番待ちで教室に残っているわけだが、時折校門から見慣れないスーツ姿の女性や男性が入ってくる。それは多分、生徒の親――保護者なのだろう。時間を合わせるように、生徒が一人、また一人と事前に伝えられた順番どおりに教室を出て行く。
 雪也の面談の順番は、本日の最後に位置していた。
 だから、教室が閑散としていく中を、ぼんやりと窓際の席に座って時間が過ぎるのを待っているのだ。
 アルバイトに行く事もできず、部活をしているわけでも無い。手持ち無沙汰な時間が過ぎていく。
 夕暮れの教室は赤色に染まり、昼間のそれとはまるで違う別世界のようにも見える。
 いつしか教室に人気がなくなり、空虚な空間にぽつりと一人取り残されている。
 赤い世界。かつてなら特になんの感慨も抱かなかっただろう色。けれども、事故後の遺体の身元確認で雪也は両親と兄に対面していた。グシャグシャにつぶれたそれを、ほとんど直視する事はできなかったけれども。
 それでも、覚えていることはある。赤い色。ひたすらに赤黒い色。
「――っ」
 ブルッと体が震えた。寒いわけではない。ただ、全身がそれを思い出すことを拒絶した。
 冷や汗が浮かぶ。瞳孔が細まる。息が出来ない。
 思い出すことはなかったのに。
 思い出そうとしなかったのに。
 震える体を押さえつけようとした瞬間、ガラリと音を立てて教室の戸が開いた。
 ひょい、と上半身だけを入り口から室内に入れて、教室の中に他の人間がいないことを確認しているのは柊冬香だった。悪戯っぽく笑いながら、教室の中に足を踏み入れる。
「いたいた。おーい、雪く……?」
 雪也の様子に気付いたのか、冬香の声が止まる。
「雪くん!?」
 駆け寄った冬香が雪也の肩に手をかけた。手に伝わる震えに、冬香の表情が切迫したものに変わる。
「どうしたの!? 具合が悪いの!?」
「……ぁ」
 堪えきれなくなった雪也が、何も言わずに首を横に振る。その表情を見て、冬香は気付いた。この症状は、雪也が両親と兄を喪って暫くの間、彼を襲っていたものだった。
 PTSDに近いそれは、家族を唐突に失ったショックと、死体を見た事によるショックが加わったものだったらしい。冬香も夫の遺体を確認したが、あれはトラウマになってもいい代物だった。
 ただ、雪也は自分よりもそれをより強烈に感じたのだろう。元々、繊細な部分を持っているうえに、彼はまだ子供だったのだから。
「雪くん」
 だからそんな時、冬香はこうしていた。
 雪也の頭を胸元に引き寄せて、抱きしめる。
 心臓の音を聞かせるようにして、ゆっくりと、確かめるように頭を撫でる。
 雪也が目を閉じて、冬香の胸に顔を埋めるようにして、ゆっくりと息を吐く。
 心臓の鼓動にあわせるように、ゆっくりと。
「――だいじょうぶ」
 そのまま、雪也が落ち着くまでその姿勢を続けるのだ。
 雪也は、ふう、と深い息を一つ吐いて身動ぎした。それを合図に、冬香も手を放す。
「すいませんでした……」
 小さく、照れくさそうに雪也が謝る。その顔に、冬香はただ微笑んで返した。

「どうしたの? ここ暫くは落ち着いていたのに」
 雪也の額に浮かんだ汗をハンカチで拭いながら、冬香はそう尋ねた。実際、雪也のあの発作は事故直後の半年ほどで治まっていたのだ。彼が意図的にあの事故の詳細を思い出さないようにしているおかげだとは知っていたが、そうであるなら尚更に唐突に発作を起こす理由が分からない。
 雪也はされるがままになりながら、小さく呟いた。
「……夕日の赤が、ちょっと」
 室内を満たしていた赤は、今も鮮やかに室内を満たしていた。普段の雪也なら気にもしないだろうそれを、けれど今日に限って連想してしまったのか。
「そっか」
 だから、それ以上は冬香も触れない事にした。ただ、もう一度だけ、雪也を抱きしめる。
 雪也もされるがままになっている。普段の彼はあまり、こうして冬香に甘えることは無い。むしろ冬香が甘えていると言っても良いだろう。年よりも大人びたところのある少年は、いつだって冬香の面倒を見てくれているのだから。
 だから、こんな風に甘えてもらう瞬間が、冬香は好きだった。
 何を話すという事も無い。ただ、互いの心臓の鼓動を聞くように、静かな時間が過ぎていく。

 ガラリ、と教室の戸が開くまでは。

「――おーい、柊。次、お前だってよ」
「ん、分かった。じゃあ行きましょうか。冬香さん」
 教室に入ってきたクラスメートの少年が雪也の傍に座っていた冬香を、不思議そうに眺める。実際、彼女が雪也の母だとは到底見えない。いくら若作りでも無理があるだろう。では一体?という疑問が顔一杯に広がっていた。
「姉だよ」
 短くそう言って、雪也が教室を出る。冬香もクラスメートの少年に会釈を一つして、後を追うように教室を出た。
 廊下を歩く雪也の背中には、つい先刻自分にしがみついていた少年の面影は無い。
 あの一瞬で自分を立て直してしまった雪也に溜め息を一つ吐いていると、怪訝そうに振り返られる。
「どうかしました?」
「んーん。なんでも。ほら、先輩が待ってるんでしょ?」
 ええ、と頷いて雪也が歩き出す。
 冬香はもう一度、聞こえないように溜め息を吐いた。

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「冬香さんと僕。」#11

/11

「ええ。だからそれは前にも言ったでしょう!? いい加減にして、お母さん! 私はもういい大人なんだから!」
 携帯電話に向けて怒鳴り散らしているのは、柊冬香だった。
 オフィスの休憩スペースには冬香以外の姿は無い。窓の外は真っ暗で、ビルの窓に点った灯りだけが皓々と輝いている。それを見下ろしながら、冬香は忌々しげに舌打ちをした。
「あのね、私まだ仕事中なの! それを何度も何度も同じこと言って……!」
 携帯電話を耳から放し、最後とばかりに怒鳴り声を上げる。
「もうこの話は止めて頂戴! 切るからね!」
 電話の向こうでも何か怒鳴っているようだが、冬香は無視して通話を切った。
 もう一度電話をかけてくる様子もなく、冬香は深い溜め息をはいて冷え切った紅茶を口に運ぶ。窓の外を流れる光は、高速道路を走る車のヘッドライトだろう。
 不意に携帯電話のLEDが明滅し、振動が手に伝わった。再度電話がかかってきたのを見て冬香は忌々しげにそれを広げた。
「……ああ、もう。しつこいったら」
 吐き捨てるように呟きながら、冬香は電話の着信履歴を見る。
 その番号は、冬香の弟からの物だった。
 途端、冬香の表情が晴れがましいものに変わる。
「はい、もしもし?」
 声は一オクターブ高まり、機嫌のよさそうな響きが部屋に広がった。
 果たして携帯から聞こえてきたのは、彼女の義弟の声だった。
 アルバイトが少し押して、まだ帰れそうにないという彼の声に、冬香は小さく頷く。
「うん。私もちょっと残業してて、まだ帰れそうにないの。うん。ええ、気をつけて帰ってね。え? ……うん。大丈夫だから。ええ。じゃあ切るわね?」
 体調を心配する雪也に笑って返して、冬香は通話を切った。
 晴れがましい顔で振り返って、そこで動きが止まる。
 休憩スペースの入り口に、唖然とした顔の葛木美咲が立っていたからだ。
「あら、美咲ちゃんも休憩?」
「え? あ、は、はい」
 コクコクと頷いた美咲に、冬香は機嫌よく微笑む。
「ごめんね。頑張って片付けちゃいましょ。じゃ、私は先に戻るわね」
 言ってすれ違う冬香に、美咲は呆然としたまま頷いて道を譲った。機嫌よく歩く冬香の背中を唖然としたまま見送る美咲は、最後に首を傾げてしまった。
 課長である柊冬香は、非常に有能な上司だった。厳しいところもあるが、ユーモアを解する気の良い上司でもある。結婚式に出席した時の彼女は美しかったし、葬儀に出席した時の彼女は不安になるほど消沈していた。
 職場ではそんな様子は微塵も見せなかった。皆も気を遣い、事故の件には触れないように気遣った。しかしそれでも、彼女のあんな嬉しそうな仕草を見たのは美咲は初めてだった。もしかして、新しい恋人でも出来たのだろうか。そんなことを考える。
 ゴシップは嫌いでは無いが、上司をそのゴシップのネタにするのは気が咎める。
 美咲は見なかったことにしよう、と心の中で決めつつも、いつか聞いてみようなどと考えて仕事に戻る事にした。


「――で、僕はなんでこんな事をしてるんでしょうか」
 椅子に頬杖を突きながら、雪也は溜め息を吐いた。
 閉店の時刻はとっくに過ぎている店内は、もうほとんど片付いている。照明もほとんど落とされ、現在明かりが灯っているのは雪也が座っている辺りだけだ。そして雪也の向かい側には東島夏奈が座っていた。
 俯いたままの夏奈は必死な表情でペンを走らせている。彼女の目の前にはノートと数学の教科書が広げられていた。
「うっさい柊」
「文句あるなら帰ろうか?」
「ごめんなさい。もうちょっとだけ居て下さい」
 待ち時間なしで夏奈が謝るのを聞きながら、雪也は溜め息をもう一つ吐いた。冬香に電話した時は仕事が押したと言ったが、その実はバイト先の娘の一人にして同級生の東島夏奈が明日の宿題を綺麗さっぱり忘れていたことに端を発したのだ。彼女は雪也がその部分を既に終えていることを確認すると、泣きついてきた。写させろ、とまでは言わなかったが教えてくれといわれたのだ。父親であるマスターに世話になっている身として、無下に断ることも出来なかった雪也は渋々ながら頷いたのである。
「大体、秋乃さんに聞けばいいだろ、これくらい」
「お姉ちゃんが素直に教えてくれるハズないじゃない」
「そうかぁ? 答えは教えてくれないけど、導き方は教えてくれるだろ。ヒントとか」
「そりゃ、柊はお姉ちゃんのお気に入りだもの。妹にはシビアなの」
 特に考えて答えているわけではないのだろう。夏奈の答えは、ほとんど反射的に出ているもののようだった。
「お気に入りね。まあ嫌われてはいないだろうけど」
「というより、あんたの前だと猫被りまくりよ」
 カリカリと動かしていた手がぴたりと止まる。
「ね、柊。これどうするの?」
 差し出されたノートを見て、雪也は教科書のページを指さす。横着とも見えるが、夏奈にはこれで十分なのだ。確かに東島夏奈という人間は単細胞な人間である。かつて雪也は彼女のことを「バカ」と評したが、それは彼女が劣っているのではなく、切り替えが下手で一つのことにしか集中できないことを評しての言葉だった。
 それゆえに、現在。宿題を解くという事に集中している彼女には、この程度で十分なのだ。
 マスターが淹れてくれたコーヒーを啜りながら、雪也は時計に目を走らせる。
 冬香がまだ残業中だと聞いてから、まだ数分しか経っていない。
「ね。さっき電話してたの誰?」
 不意に、夏奈が見上げて尋ねた。どうやら集中が途切れたらしい。興味の対象が複数あると、忍耐力が足りなくなる辺りが夏奈の夏奈たるゆえんだった。
「誰って言われても、家族だよ」
「家族……?」
 夏奈は、雪也とは1年の頃からのクラスメートである。とはいえ、彼の家族のことはよく知らない。ただ雪也と同じ中学出身の友人から、彼が天涯孤独らしいなどという事は聞いていた。それを当人に確認するほど無思慮でも無遠慮でも無い夏奈は、それでも不思議そうに雪也を見つめなおす。
「姉がね」
 雪也はといえば、特に気にした様子もなくそう続けた。
「……それにしては楽しそうだったけど」
「残業を楽しそうにしているように見えるとは、中々いい目をしてるな。東島」
 ひんやりとした雪也の声に、夏奈が慌てて視線をノートに戻す。
 柊雪也という人間はよく言えば誰にでも人当たりよく、悪く言えば他人に一定距離から内側に踏み込ませない人間だ。アルバイトを通じて、他のクラスメートよりは気の置けない友人関係を構築できたとは思うが、それ以上では無い。今も、彼は自分の家族については口をつぐんでしまう。
「……ゆーきーやーちゃん!」
 などと考えていたら、がばり、と椅子の後ろから雪也が抱きしめられていた。
「秋乃さん。何事でしょうか」
「んー? 雪也ちゃんが座ってたから抱きついてみたの」
 にまにまと笑いながら、雪也を背後から抱きしめている姉を、夏奈は思わず睨み付ける。こっちが宿題でヒイヒイ言っているというのに、何をしているのか。
「あら、夏奈の勉強を見てくれてたの? ありがと、雪也ちゃん」
「いえ。明日、東島が答えてくれないと、他の連中にもとばっちりがあるんで」
 数学教師の陰険さは学年中で有名なのだ。
「んふふ。雪也ちゃんは優しいね」
「自分のためですよ」
 ぐいぐいと後頭部に押し付けられる柔らかさを気にしないようにしつつ、雪也がそっけなく答えるのを楽しげに秋乃は眺めていた。
「謙遜しちゃってぇ」
「別に。……あの。出来れば放していただきたいんですが」
「気持ちよくない?」
 ぶふっ、と音を立てて夏奈が噴き出した。さらに、ゆらりと立ち上がる。
「おねーちゃん……宿題の邪魔だから、どっか行って」
 睨み付ける妹を見て、ゆっくりと笑った秋乃がその手を雪也から放す。後頭部の柔らかさと熱が離れるのを感じて、雪也が安堵したように息を漏らす。
「じゃあね、雪也ちゃん。夏奈も、あんまり迷惑かけないようにね」
「誰もかけてないわよ! さっさと戻る!」
 「はいはい」などと言いながら奥の自宅へと戻って行った秋乃を睨みつけ、さらに雪也に険しい目を向けた。
「……助平」
「僕は何もしてないんだけど」
「うっさい。助平」
「帰っていい?」
「ごめんなさい。もうちょっと待ってください」
 立場の弱い夏奈だった。


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「冬香さんと僕。」#10

/10

 目覚めはあまり気分の良いものではなかった。
 ぐったりとした体と頭を無理やりに持ち上げて、自分がいる場所を確認する。
 自分の部屋ではない。それは自分がベッドではなく、床に敷いた布団に横になっていることからも間違いないだろう。さらに言えば洋室である自室とは違い、明らかに和室の空間が目の前に広がっている。
「……ここは」
 ふと下を見る。シャツ一枚で横になっている自分。パジャマどころかスカートすらはいていない。慌てて回りを見れば、ハンガーにかけられたスーツ一式が置いてある。
「えっと……」
 ちらりと横を見ると、自分の隣で眠っている女性がいた。
「遠近……そっか」
 枕を抱きしめて眠っている女性は、高校時代の後輩の遠近冬香――今は、柊冬香になった女性だった。そこまで考えてようやく思考が正常に戻ってくる。
 昨夜、柊家に家庭訪問に訪れたこと。そしてそのまま冬香になし崩しに宴会に持ち込まれてしまったこと。そこで飲みすぎて――多分、つぶれてしまったのだろう。途中から記憶がなくなっていることに苦笑しながら、カーテンを開ける。
 空は雲ひとつない快晴だった。眩しいほどの光に目を細めて、宮川椛は振り返った。
「――んう……」
 光から逃げるようにタオルケットを被る冬香。それを見て微笑む。
 ポスポスと音を立てて襖がノックされた。
「はい?」
「起きてましたか? 朝ごはん作りますけど、どうしますか?」
 襖の向こうから雪也が訊ねる。その声に、改めて自分が生徒の家に泊まってしまったのだと気付かされた。
「え、ええ。あ、えっと、頂くわ」
「分かりました。あー、すいませんが冬香さんも起こしといて下さい……」
 そう言って台所で準備をしているらしい音が聞こえてきた。
 椛は息を一つ吐くと、今も枕を抱えて気持ち良さそうに眠っている後輩の肩を揺すった。


「……いただきます」
「いただきまーす」
「いただきます」
 椛の前には、ご飯としじみの味噌汁。それに鮭の切り身と玉子焼きが並んでいた。
「あー……しじみが染みるわー……」
「おっさん臭い……」
 冬香の呟きに、雪也が眉間に皺を寄せて呟く。椛はといえば、黙々と箸をすすめていた。当人としては生徒の家に泊まった上に、あまつさえ朝食までご馳走になっているという状況が気まずいことが理由であるのだが。
「そういえば椛さん、気分大丈夫ですか? 昨日は随分……えっと、飲まされてましたけど」
「え? ええ、大丈夫……?」
 はて、と椛と冬香が首を傾げた。
 今の言葉、どこか違和感があった。言葉として問題は無い。無いはずなのに、それはじわじわと脳裏に広がっていく。
「――椛さん? 冬香さんも、どうかしました?」
 箸を止めたままの二人を怪訝に思ったのか、雪也が首を傾げる。
 そして、それで二人の違和感は判明した。
「ゆ、ゆゆゆ、雪くん!?」
「はい? どうかしました?」
 冬香が慌てて雪也の袖を掴むのと、椛がずり落ちた眼鏡を必死に押し上げて、雪也に向き直ったのは同時だった。
「あの、柊君? さっき私のこと、なんて……」
「え? だから椛さんって呼んだんですけど」
 キョトンとした雪也に、椛の顔が引き攣る。さらに冬香の表情も引き攣っていた。
「あの、どうして私のこと、そんな風に呼ぶのかしら」
「……え。だって椛さんが昨日、僕にそう呼ぶように強要したんじゃないですか」
「――は?」
 ガクン、と思わず顎が落ちる。冬香も同じように動かなくなっていた。雪也はといえば、冬香に引っ張られるがままになりながら、不思議そうに椛を見返している。
「き、昨日? 私が?」
「はい。『なんで冬香が冬香さんで、私が宮川先生なんだ!』って。えらい剣幕で」
「……」
 冬香が椛の顔を見る。
 椛も冬香の顔を見た。
 お互いに首を横に振り合う。二人とも、そんなことを言った記憶も聞いた記憶も無いらしい。それを他所に、雪也が溜め息混じりに話し続けている。
「椛と呼べって言われて椛先生って呼んだら『学校の外で先生って呼ぶな』って怒ったじゃないですか。だから、椛さんって呼んだんですけど……椛さん?」
 雪也の怪訝そうな視線に、椛がようやく口を開いた。とはいえ、何を言うべきかは思いついてなかったのか、パクパクと口を開け閉めしている。
「え、えっと雪くん。いくらなんでも、それは先生に対してはフランクすぎないかな?」
 冬香が引き攣った顔のまま、それでも何とかそう言った。その言葉に、椛もコクコクと頷く。対して雪也はといえば、当然のように頷いた。
「だから、学校ではちゃんと宮川先生と呼びますけど……?」
 なんで二人が動揺しているのかが理解できていないのか、雪也の怪訝そうな表情は消えない。そして二人の挙動不審な反応も、である。
「ちょ、ちょっと先輩! 雪くんに何を要求してるんですかっ」
「わ、私は覚えてないわよ。それに、彼の生活態度の監督はあなたの管轄でしょうっ」
 雪也に聞こえないように、ヒソヒソ声で互いに言い合いを続けている二人を見て、雪也がもう一度首を傾げた。


「……じゃあ、そろそろお暇するわ。柊君、学校では――」
「分かってます。ではお気をつけて。宮川先生」
 にっこりと笑って返した雪也に、椛は複雑な表情で頷いた。それから雪也の隣に立っている冬香に視線を移す。
「それじゃあね、冬香。久しぶりに会えて嬉しかったわ」
「私もです、先輩。また今度、飲みましょうね」
「……今度はお互い、記憶があるうちに止めましょうね」
 ははは、と虚ろな笑いを二人が上げる。
「じゃあ、また学校で。お邪魔しました」
 一礼して階段を下りていく椛を二人は見送る。冬香はちらりと雪也の横顔を眺め、それから椛に視線を移し、もう一度雪也へと目を向けた。
 雪也はといえば、さっさと部屋に戻って片付けを始めていた。
「……ねえ、雪くん」
「はい?」
「昨日の話だけど、進学を考えてくれたってことで良いんだよね?」
 壁に背を預けて、掃除機をかけ始めた雪也の背中を見つめながら、冬香。その表情は、つい先刻までの二日酔いだと言ってグダグダとしていた彼女のそれとは違う。
「ええ。冬香さんが気にするなと言ってくれましたし……それにやっぱり、大学くらい出ておいたほうが、何かと得みたいですし」
「ん。そう思ってくれたなら良いや」
 掃除機の音を聞きながら、冬香はそう呟いた。
 そして、じっとりとした目で改めて雪也の背中を見る。
「それはそれとして、雪くん」
「――なんでしょうか」
「先輩のこと、椛さんなんて呼ぶなんて、馴れ馴れしすぎると思うの」
「……それは僕も昨日、散々言ったんですが」
 じっとりとした目が冬香に返される。
「冬香さんが横で椛さんの肩を持って僕に名前を呼ばせたわけですが」
「――今日は良い天気ねぇ」
「そうですね。丁度いいから、布団も干しちゃいましょうか」
 掃除機のスイッチを再度入れて雪也が掃除をしている間、冬香は二日酔いと記憶にない昨日の自分を罵り続けていた。

 自宅へと帰りついた椛は、着ていたスーツを脱ぐとぐったりとベッドに転げ込んだ。
 まったくもって自分らしくなかった。
 この6年以上教師を続けてきて、こんな風になったのは初めてのことだ。生徒の家に泊まってしまうだなんて。
 いくら保護者が学生時代の懐かしい後輩だったと言っても、正体を失うまで飲む必要は無かったはずなのだ。おまけに、記憶には無いが酔っ払ったまま生徒に絡んでしまったらしい。……自分が絡み酒だとは知らなかった。普段の職場の飲み会で記憶をなくすまで飲んだなんてことは無いし、絡み酒と言われたことも無い。
 椛はぼんやりと天井を眺める。
 椛さん、だなんて呼ばれるのは何年ぶりだろう。そんなことを考えている事に気付いて、思わず赤面してしまった。
「何考えてるんだか。……シャワー浴びよ」
 頭を一振りして、バスルームへと入る。すっきりすれば、この取り留めのない不可思議な感覚も収まるだろう。そう考えながら。


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「冬香さんと僕。」#9

/9

「家庭訪問、ですか? こんな時期に?」
「ええ。来年には受験もあるし。……進路は考えている?」
「まあ、それなりには」
 夕刻の進路指導室は、沈みかけた夕陽によって真っ赤に染まっていた。窓枠の影が黒々と床に伸び、切り分けられた領域が少しずつ部屋の奥へと延びている。
 担任からショートホームルーム後に進路指導室へ来るよう告げられた柊雪也は、目の前に座っている女性に視線を向けなおした。
「でも、なんで急に? クラスの他の奴らにはそんな事は言ってないですよね」
「ええ……」
 窓を背に座っている担任の宮川椛は、少しだけ居心地が悪そうに身動ぎした。夕陽が逆光になっているせいか、雪也には椛の表情は見えない。雪也が目を細めるのを見て、椛は立ち上がった。
「……柊君のご家庭の事情が、ね」
 カーテンを引いて夕陽を遮る。その後姿を雪也が見つめている。
「――なるほど」
 気遣わしげに振り向いた椛に、雪也はただ頷いて見せた。その表情には傷ついた様子も、怒りを感じている様子も無い。ただ当たり前のように頷いている。
「無神経なことを言ったわね。ごめんなさい」
「あ、いえ。そんな事ないですから」
 頭を下げた椛に、雪也はこれには慌てたように答えた。
「……あー。ただ、家庭訪問と言われても……」
 そして困ったように唸る。そんな雪也に首を傾げた椛は、もう一度彼の身上書を確認した。保護者欄には柊冬香という名前がある。
「僕の保護者、仕事してるんで平日は夜じゃないと家に居ないんですよ」
「そちらの都合の良い日で構わないわ。休日でも、そちらが良ければ平日の夜でも構わないから。聞いてみてくれないかしら」
「分かりました」
 立ち上がって、ふと思いついたように顔を上げた。
「そういえば先生、香水つけてます?」
「――え!? え、ええ。少し気分を変えたかったから。……もしかして匂いがきつかった? 着けなれてない物だから失敗したかしら」
「いいえ? 良い匂いがするなって思っただけですから。じゃあ、失礼します」
 進路指導室を出て行った雪也を見送って、椛は小さくため息をついた。


 椛が地図に書かれた道をたどって柊家の前に立ったのは、金曜の夜の8時を回った時刻だった。翌日が休みという事もあり、彼の保護者がこの時間を指定してきたからである。翌日は用事があるので――と申し訳なさそうな顔をした雪也を思い出して、椛は小さく苦笑いをした。
 こんな時間に手ぶらは失礼かとも思ったが、教職にある者が手土産を持って生徒の家を訪ねるというのも外聞が悪い。相手も理解してくれるだろうか、などと考えつつインターホンのスイッチを押した。
 ばたばたと音がして、ドアが開く。
「こんばんわ、先生」
「こんばんわ、柊君。……お家の方はいらっしゃる?」
「え? ええ。帰ってきてますが……」
 なにやら背後でバタバタした物音が立っている。かと思えば、何かをひっくり返すような音や、きゃーという若い女性の悲鳴めいた声。さらに何かが割れたような音がした。
「え、と。大丈夫?」
「……ちょっとお待ちを。すいません」
 パタン、とドアが閉まる。そして、雪也の声が聞こえてくる。「ああ、もう。冬香さんは座ってて下さい。急に掃除するなんて」「だって、雪くん」「ほら、そこに破片落ちてるから動かないで下さいよ」「……私、お茶煎れるから」「それも僕がやるから、良いから座ってってください」
 なにやらバタバタと混乱が広がっているらしい。雪也の声に含まれる響きは聞きなれないもので、それが不思議に思えた。
「……すいません、お待たせしました」
 数分と経たずにドアが再び開いた。
 雪也が招き入れると、部屋は外から聞こえた惨憺たる音が嘘のように片付いている。
 奥に続く襖が固く締め切られているのが気になったが、長い教師生活で培った自制心はそれ以上襖を注視する事をやめさせてくれた。
 部屋の中央にテーブルが置かれ、その傍らに座っていた女性が椛を見て立ち上がる。
 思ったよりも若い女性が、表情をキリリと引き締めて椛に向けて口を開いた。
「すいません、お恥ずかしいところをお見せしてしまって。雪く……、えと、雪也君の保護者の柊冬香と申しま……」
 片手を差し出しながら、唖然とした顔になる。
 そしてそれはきっと、自分も同じだっただろうと椛は思う。
「遠近(とおちか)!?」
「椛先輩!?」
 唖然としあったままお互いを見詰め合う二人を見比べて、雪也が首を傾げた。
「と、遠近が柊君の保護者、なの?」
「先輩が……雪くんの担任なんですか?」
 わなわなとお互いを指差しあった後、二人は突然破顔した。抱き合って、お互いの手を取り合っている。
「なっつかしい! 何年ぶり?」
「かれこれ10年ですよ! 先輩もお変わりなく!」
 満面の笑みを浮かべて話し合う二人に、雪也がお茶を煎れた湯のみをテーブルに置きつつ話しかける。
「冬香さんと先生、お知り合いなんですか?」
「うん、高校時代の先輩なの。……でも、先輩が雪くんの担任なんて、凄い偶然」
 冬香が「あ」と声を上げて、椛から離れた。
「すいません先輩。あ、どうぞお座りになって下さい」
「え、ええ。じゃあ、失礼します」
 椛が改めて座ると、お茶が目の前に差し出された。
「ありがと、柊君」
 受け取ると、雪也が冬香にもお茶を差し出している。受け取った冬香はそれに口をつけて、それから椛に顔を向けた。
「でも本当に驚いた。先輩が来るなんて思ってなかったから」
「私もだわ。……そっか。遠近はもう旧姓なのね」
 椛が楽しげに微笑む。冬香も同じように笑い、それから少しだけ肩を落とした。
「ええ。今は柊冬香ですから」
「……そっか。旦那さんのこと、お悔やみ申し上げます」
 椛も気付いたのだろう。表情を改めて、深々と頭を下げる。
「あ、いえ! ……もう、大丈夫ですから」
 冬香も苦い笑いを口元に貼り付けたままで、椛に頭を上げるよう身振りで示した。
「雪くんが一緒でしたから、ずいぶん助かってます」
 その表情は強がりではなく、本当にそう思っているように椛には見えた。だから、軽くからかうように言葉尻をとらえてみた。
「そう。……『雪くん』?」
 ちらりと椛の目が、冬香の隣、椛と冬香の間に座っていた雪也に向けられる。
「え!? あ、あの! いえ、その、えっと、雪也君が、ですね」
「いいわよ、もう。普段はそっちで呼んでるんでしょ?」
「う……はい」
 シュンとした冬香に椛が笑う。雪也が少し驚いた顔をしているのを見て、椛は首を傾げて見せた。
「どうかした? 柊君」
「……いえ。先生がそんな風に親しそうに笑ってるのは、初めて見たものですから」
「そう? そうかもね。前のは違っているし」
 クスクスと笑う椛に「そうですね」と雪也が答える。
「え、なに。なんですか? 二人だけで分かり合ってズルイです。雪くん、教えて」
「そんな大したことじゃないですよ」
「良いからー。教えて!」
 ぐいぐいと雪也の袖を引っ張っている冬香を見て、椛はもう一度笑った。


「雪くんの進路……ですか?」
 一息をついて始めた家庭訪問の面談で、冬香が戸惑い気味に問い返した。
「ええ。柊君は成績だって良いし、内申も良いわ。ただ、ご家庭の事情があるから、早めに考えておいたほうが良いんじゃないかと思って。……言いたくは無いけど、経済的に余裕があるわけでもないでしょう?」
 む、と冬香は言葉に詰まった。
 確かに冬香の収入と、雪也の微々たるアルバイトの給与だけが現在の柊家の収入である。進学を前にした学生を抱える家としては、それは決して潤沢な物ではないだろう。とはいえ、雪也の両親や夏彦が残した預金や生命保険は、ほぼ手付かずで残してある。特に柊の両親の遺志として、雪也を大学に進学させるのは冬香にとっては決定事項だった。ただ、そのために遺産を取り崩すのが良いことかどうかは悩むところだったが。
「私は、雪くんを進学させたいです。雪くんだって進学したいでしょう?」
 冬香にそう尋ねられた雪也は、小さく片眉を上げただけだった。
「雪くん……?」
「多分、一昨年なら迷わず進学とか言えたんでしょうけど。今は、正直よく分からないです」
 不安そうな冬香に雪也はそれだけを答えた。
「お金の心配なら大丈夫だよ? お義父さんたちのお金は、全然手を着けてないんだし。あれは、そのためのお金なんだよ?」
「……でも、さらに学生を続けるのがいいことなのか、悩みます。今だって、冬香さんの収入に僕が頼ってるのはおかしいのに」
「おかしくなんかないよ! 私は雪くんのお姉さんなんだから!」
 冬香の声が不機嫌に響いた。だが雪也は構わずに、さらに言葉を継いだ。
「それに冬香さんが再婚したら、もう柊とは関係なくなるでしょう? 再婚しないとしても、遠近に戻ればやっぱり関係なくなるじゃないですか」
「私は再婚なんかしないわよ! それに遠近にも戻らないわ」
「先のことは分からないでしょう?」
 雪也が肩を竦めて頭を振った。
「だから、ちょっと悩んでます。どう選んでも、冬香さんの選択肢を狭めそうだから」
「柊君……」
「雪くん……」
 椛と冬香が眉根を寄せる。確かに冬香が再婚なり柊の籍を抜くなりすれば、雪也との縁は切れるだろう。そうなった場合を考えれば、雪也が遺産に手を着けることに躊躇する理由も分からなくも無い。
 だが、冬香はそれに対して腹が立っていた。
「……雪くん。お話があります」
「は、い?」
 据わった目の冬香が、雪也に向き直った。
「あの、遠近?」
「椛先輩。今の私は柊です」
「え? あ、そ、そうね。えっと……冬香?」
 ぴしゃりと言い返された椛が、伺うように尋ねる。
「なんですか」
「ど、どうしたの?」
 ブルブルと震えている冬香に椛も雪也も戸惑っていた。何故急に不機嫌になったのか。というか、なんでこんな怒ってるのか。
「だって――まるで私が雪くんを捨てるみたいな言い方されたんですよ!?」
 ぐわっと冬香の顔が上がった。その表情は、怒っていた。怒りつつ、傷ついていた。
「私、そんな薄情な人間に見えますか? ううん、それが別の人に言われたならまだしも、雪くんがそんな風に思ってたなんて酷いです!」
「や、あの冬香さん?」
「あのね雪くん。私、これでも人の好き嫌いが激しい人間なの。そんな私が、雪くんと一緒に暮らしてるのが同情だけだと思う? そんな筈ないじゃない。私はちゃんと雪くんが好きだから暮らしてるの。私があなたを捨てるなんてありえないの」
「は、はぁ」
「分かってる!?」
「……多分」
「多分!?」
「分かりました! はい、納得しました!」
 バン、と音を立ててテーブルを叩かれ、雪也が背筋を伸ばして慌てて言い直す。それを聞いて、冬香は満足したように頷いた。
「分かればよし。……だから雪くん、ちゃんと進学を考えて。他にやりたい事があるなら、話は別だけど」
 言って、ちらりと椛を見る。
「先輩にちゃんと相談すれば大丈夫よ。先輩、こう見えて世話好きだから」
「……冬香」
 はぁ、と息をついて椛が笑う。
「言われなくても相談には乗るわ。担任なんだから。ね?」
「……ありがとうございます」
 雪也が二人に向かって頭を下げる。それを見て冬香は手を打ち合わせた。
「さ。じゃあ、もうこのお話はおしまい。ね、先輩。今日は飲みましょう!」
「え? あ、あの私はもうお暇を……」
「駄目ですよう。えっと、ビールでいいですか?」
「あの、冬香?」
 冷蔵庫を開けながら聞かれて、椛が助けを求めるように雪也を見た。
 だが雪也はと言えば、諦めたようにつまみになるスナックを棚から取り出している。
「ひ、柊君、あなたからも何か……」
「諦めて下さい。ああなったら、もう僕じゃ止められませんから」
 雪也がテーブルにつまみを広げている間に、冬香が機嫌よくビールの缶とグラスを持って戻ってきた。
「さ、飲みましょ飲みましょ。えっと、さすがに雪くんは駄目……ですよね?」
「当然ね」
「まあ、当然でしょうね」
 下から恐る恐ると見上げた冬香に、椛と雪也が揃って冷たく答える。その答えに、焦った顔でさらに冷蔵庫からペットボトルを持ってくる。
「じ、じゃあ雪くんはジュースね。さ、注いで注いで」
 注がれながら椛が雪也を見る。雪也はといえば、困ったものだと言う顔で自分のグラスにジュースを注いでいた。そしてちらりと椛を見て、肩を竦めて見せる。
 その仕草に椛も唇の端を緩めた。その間にグラスにビール注ぎ終えた冬香は、グラスを掲げて機嫌よく乾杯の音頭を上げるのだった。
「注ぎ終わった? じゃあ、予期せぬ再会と雪くんの進学にカンパーイ!」
「まだ進学しようと思っただけですけど、カンパーイ」
「……乾杯」
 チン、とグラスを合わせる音が柊家に響き渡った。


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「冬香さんと僕。」#8

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 柊雪也の家庭環境は複雑である。
 高校受験を目の前にした冬に、飛行機の事故で家族三人を一度に亡くした。係累はなく、彼は天涯孤独の身となった。同じく事故で亡くなった兄の妻――つまり義理の姉に引き取られ、今はそこで暮らしている。
 彼の身上調査票は、下手なドラマよりも悲劇的だった。
 深いため息を一つついて、宮川椛(もみじ)はファイルを閉じた。
 職員室の安いスチール椅子に体重を預けると、背もたれから悲鳴のような軋みが上がる。
 夕暮れの職員室には、他の教師達の姿は無い。部活の顧問に向かったか、帰ったか。椛とて早く帰れるならば帰りたい。受験生を担任しているわけでもないし、部活の顧問でもないのだから。しかし今日は駄目だ。生徒を呼び出しておいて、先に帰るなんて論外だ。
 とはいえ、帰ったところで何があるわけでもない。椛は、見るからにオールドミスめいた華の無い格好をしていた。古い型のスーツに、ひっつめ髪。眼鏡も十年近く愛用したフレームで、少々時代遅れの金属フレームである。化粧も最低限しかしておらず、見苦しくなければそれで良い、という格好だった。
 元より、華美な格好をする必要性がある環境ではない。学生達の規範となるのなら、なおさらである。学生時代から続いた恋人とは、二年ほど前に別れた。その後、会社の同僚と結婚したと聞いた。それを聞いて、傷つかなかったわけではない。自分が結婚相手として不適格だといわれたようなものだから。
 だが、それを顔に出すことはしなかった。椛は、そういう性格だった。
「――はぁ」
 もう一度、深いため息。今度は生徒の家庭環境のせいではなく、自分自身のせいだが。
 職員室の引き戸が開けられる音が、シンとした室内に響き渡った。
 振り返った椛の目に、室内に入ってきた東島夏奈の姿が映る。
 夏奈は室内を見回して、椛の座る席まで歩いてくる。
「なんですか、先生」
 ソワソワしている夏奈を一瞥して、椛は別のファイルを手に取った。
「呼ばれた理由は、大体分かってるんじゃなくて? 東島さん」
「――う」
 引き攣った顔をした夏奈に椛は厳しい顔を向けた。その手には一枚のプリントがある。
「昨日のテスト、酷い出来よ」
「い、いやぁ。昨日のは調子が悪くって」
 引き攣った笑い声のまま、夏奈が視線を逸らす。そんな夏奈を見て椛は深々とため息をついた。
「私もあまり言いたくは無いのだけれど。部活に精を出しすぎて、授業がおろそかにされるのは、好ましくないわ。このままだと部活動に制限をかけることも考えなくてはならないし」
「ウソっ!? じ、冗談だよね、先生」
「必要ならやるわ。部活は学校生活の全てではないの。人それぞれにウェイトの差はあるだろうけど、私は勉強に重みを置いてほしいと思ってる」
「でも、あたし、レギュラーだし……」
「レギュラーだから、成績が悪くても構わないって言いたい? でも、うちにスポーツ特待の制度は無いわね」
 ぐ、と夏奈の声が詰まる。椛は冷徹な顔でそんな夏奈を見上げた。
「別に、まったく練習するなとは言わないわ。……ただ、もう少しだけ勉強のウェイトを増やしてほしいの。あなたにその余裕すらないなら、練習量を減らすよう顧問の坂崎先生にお願いしなくてはならないけど」
「そんな……。せっかくインハイ出場が見えてきてるのに!」
「それとこれとは別の問題だわ。県大会での好成績は私も誇りに思ってる。でも、それとあなたの成績が低迷する事を引き換えにする気は無いの」
 取り付く島も無いとはこの事だろう。椛の言葉に、夏奈はぐっと唇を噛み締めた。
「先生はどうせ、部活なんかどうだって良いって思ってるんでしょ!」
「……そうは言わないけれど」
 意固地になったのを感じたのか、椛の声に疲れが混じる。
「ただ、学生の本分がなんなのかを、改めて私が言わなくてはいけないかしら?」
「――っ!」
 夏奈の顔が跳ね上がる。椛の怜悧な顔を睨みつけて、踵を返した。
「東島さん」
「勉強すればいいんでしょ! 分かったわよ! 分かりました!! じゃ、失礼します!!」
 足音をドカドカと立てて部屋を出て行く。その背中を見送って、椛はもう一度ため息をついた。
 どうしても、こうなってしまう。椛の口調は他人からすると冷たく感じるらしい。こちらとしては正論を言っているつもりなのだが、どうにも相手からすると糾弾されているように感じるようだ。それが分かっていても、変えようも無い。優しい言葉をかければ良いのか。しかし、言いたいことは言わなくてはならない。
 椛はもう一度ため息をついて、ファイルを閉じた。
 東島夏奈の成績低迷は、部活のレギュラーを獲得してからの物だ。元から、そう成績の良い子ではなかったが――それにしたって、こうも急降下の線を描かれては対応せざるを得ない。自分の担当教科だけなら、まだやりようもあった。だが彼女の成績急降下はほぼ全教科に渡っている。それぞれの担当教師から苦言を漏らされては、椛とて彼女を庇うことは難しい。
 東島夏奈は授業を聞かないわけでもなく、頭が悪いわけでもないのだろうに。だからこそ、椛からすれば何故理解できないのかが、理解できない。
「……致命的かしらね」
 教師として、それは欠陥なのだろう。そう思うと、もう一度深く息を吐いた。

「失礼します。……宮川先生?」
 職員室に入ってきた新しい生徒に、椛は顔を上げた。
「あら、柊君」
 先ほどまで見ていたファイルの少年が、プリントの山を持って教室へ入ってきた。
「どうしたの、それ」
「社会科のプリントなんですけど、教官室から職員室へ運んでくれと頼まれまして」
 苦笑いを浮かべた雪也に、椛も苦い笑いを浮かべた。
「高木先生ね。あなたも正直に引き受けなくても良かったのに」
「まあ、バイトまで時間ありましたし」
 言って雪也が高木という教師の机の上にプリントの山を置いた。机の上にあったマグカップを文鎮代わりにプリントの上に置くと、ふと椛へ視線を戻す。
「どうかしましたか?」
「え?」
 キョトンとした椛に、雪也は小さく首を傾げる。
「なんだか考え事をしているように見えたものですから」
「……いいえ、別に何も無いわ」
 頬杖をついていた椛の髪が夕日に透ける。いつもなら冷徹な印象を与える顔立ちも、柔らかい夕日に照らされると印象が随分と違って見える。
「そういえば、東島を呼び出してましたけど」
 ぐ、と雪也に視線が戻る。そこにはつい一瞬前の物憂げなそれは無い。そんな椛を見ながら、雪也が肩をすくめた。
「あれはバカなんで。あんまり気にしないほうが良いですよ。一点集中しか出来ないから」
「え?」
「部活やってる間はそれしか考えられないんですよ。切り替えが出来ないというか。テストの一週間前くらいから部活禁止にしておくと良いかも」
 それじゃあ、と言って雪也が踵を返す。
「あ、ちょっと、柊君?」
「はい?」
 足を止めて振り返った雪也に、椛が首を傾げて見せた。
「東島さんのこと、よく知ってるみたいだけど。付き合ってたりするの?」
 普段の彼女なら絶対に口にしないだろう、冗談交じりの言葉。口元には微笑みすら浮かんでいる。
 そんな椛に、雪也が心底迷惑そうな顔をした。
「まさか。アレの迷惑をよく被ってるから知ってるだけですよ」
「そういえば東島さんの家でアルバイトしてたっけ?」
「ええ。……本当に、アレはバカですよ」
「あまり他人をそう言うべきじゃないわね」
「じゃあ、愛すべきバカとして『ジャイアン』とでも呼びますか」
 キョトンとした後に、椛が堪えきれなくなったかのように笑い出した。
 涙目になって、身体を折り曲げて笑い続けている。
 呼吸が苦しいのか、ヒィヒィと時折息が漏れている。
 職員室に椛の笑い声が響き続けて数分が経った。ようやく呼吸が整ったのか、椛が顔を上げる。目の端に涙の雫が浮かんでいるのをそのままに、雪也を見上げた。
「……柊君、思ったよりも愉快な性格してるのね」
「宮川先生も、思ったより笑い上戸ですね」
 涙目になったままの椛を見て、肩を竦める。
「そうね。実はそうなの」
「普段からそうしてれば、もっと親しみやすいですよ。もったいない」
「もったいない?」
「笑うと可愛いんですね」
 は――と椛の言葉が詰まる。
 雪也は特に不思議なことを言ったつもりは無いのか、表情はいつもと変わらない。
「じゃあ、失礼します。そろそろバイトの時間なんで」
「――あ、ええ。……気をつけて」
「はい」
 一礼して職員室を出て行く。
 その背中を、宮川椛はただ見送った。


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「冬香さんと僕。」#7

/7

 雪也が帰宅したのは、夜の八時を回った頃だった。
 普段なら義姉の冬香も同じくらいに帰宅するか、さもなくばもう少し遅いはずなのだが、なぜか家の明かりがついている。
 階段の下からそれを見上げて、雪也は小さくため息をついた。
 今日は散々だった。アルバイトをしている喫茶店に、まさか冬香が来るとは思いもよらなかった。彼女の普段の生活圏は違う場所にあり、駅からあの店までの道を彼女が歩く可能性は無かったはずだ。だというのに、唐突に現れた。
 あの気まずさは、普段の自分とは違うあり方をしている場所に、唐突に家族という要素が闖入したことによる物なのだろう。思わず無視をしてしまったが、実際のところあの場で彼女に親しげに話しかけることなど出来るはずがない。自分は仕事中で、彼女はお客さんなのだから。
 おまけに、冬香のほうだって同僚と一緒だったのだ。自分のことを同僚たちに話しているかもわからないのに、馴れ馴れしく話しかけるなんて、出来るはずがない。
 そう考えて、雪也は階段を上った。
 玄関の鍵を開けて中に入る。
「ただいま……」
「おかえり、雪くん」
 台所に立った冬香が微笑みを浮かべたまま、雪也を迎え入れた。その表情に、なぜか雪也はほっとする。靴を脱いで部屋に入る。冬香がテーブルの上に食事を並べるのを見て、それを手伝う。
 向かい合って座り、さて食べようか、という寸前。冬香が背筋を伸ばして座りなおした。
「雪くん。お話があります」
「……食べてからじゃ駄目ですか」
「駄目です」
 いやに硬い声が返ってくる。
 冷めるのに、と呟いて雪也が冬香に視線を移した。
「なんでしょうか」
 さて。自分が彼女に怒られるような事を何かしただろうか。学校では品行方正で通しているし、成績だって悪くは無い。特に問題を起こした記憶は無いが、何かあっただろうか。そんな事を考えている雪也を、冬香はじっと見つめている。
 何か言い出し難いことなのだろうか。ふと、そんな事を考えた。
 もしかしたら、彼女に新しい恋人でも出来たのか。だとしたら、自分がこうして一緒に暮らしている理由は無くなる。自分は所詮、彼女の亡夫の弟だ。一緒に暮らしているのは彼女の厚意に甘えているに過ぎない。この同居はいつ解消されてもおかしくは無いのだ。だが彼女は責任感が強いし、途中で自分を放り出せるほど情も薄くはないだろう。理性と感情の板ばさみにでもなっているのか――。そう考えれば、自分の存在は彼女の重りにしかなっていないのは間違いない。
 自分を卑下するつもりは無いが、事実は事実として受け止めよう。雪也がそう考えた矢先、冬香の唇が開いた。
「あのね、雪くん。……その」
 ごくり、と唾を飲み込むのが見えた。
 雪也はなるべく表情を見せないよう、気を張り詰める。
 冬香が躊躇うように口を開いては閉じ、閉じては開く。
 それから数分、ようやく意を決したように、冬香が雪也の目を見た。
 来るか、と雪也の気持ちが硬化する。そうして冬香はゆっくりと口を開き――。
「――喫茶店で一緒に働いていた女の人って、カノジョ?」
「……はい?」
 思わず間の抜けた声で、聞き返してしまった。

 冬香が困った顔をしたまま、雪也を見る。だが雪也はといえば、あまりに予想外な方向からの一撃に、混乱をきたしたままだった。
「えと、私としても雪くんがカノジョを作ったりするのは当然だと思うんだけど、やっぱりそのアルバイト先でああいう事をするのは……駄目だと思うの」
 唖然としたままの雪也を他所に、冬香が言葉を繋ぐ。
「あ、だからって二人が付き合ってるのに反対とか、そういう事じゃないんだけど。ただその……もう少し節度を持ったほうが良いんじゃないかなぁって。仕事場で、その、抱き合ったりするのは……」
「い、いやいやいやいや! あの、冬香さん?」
 雪也が慌てて冬香の言葉を遮った。普段の雪也と違った動揺した様子に冬香も驚いたのか、目を見開いている。
「あのですね。秋乃さんと僕は別にそういう関係じゃなくて、ただの同僚なんですけど」
「ふぅん……秋乃さんって言うんだ?」
「なんでそこで声が低まるのか分かんないんですけど!?」
 雪也が悲鳴めいた声を上げる。冬香はといえば、彼のそんな常ならぬ態度に、さらに目が細まった。そういう顔をすると、彼女は仕事場でのやり手のキャリアウーマンめいた顔になる。意図するしないに関わらず、だ。
「別に、雪くんがカノジョを作るのに反対じゃないもの。ただ、仕事場でイチャつくのは駄目よって言ってるだけだもの。仕事場では真剣でいてほしいの。姉として」
「だから、カノジョじゃないですってば……」
「じゃあ妹さんのほう?」
「なんでですかっ!?」
 がっくりと倒れそうになる雪也を、冬香は相変わらずの視線で見つめている。
 雪也はため息を一つついて、顔を上げた。
「あのですね。秋乃さんは、なんていうか、ちょっとふんわりしてる所があってですね。僕のことを妹の友達って認識してるんですよ。で、妹は小学生時代から扱いが変わってなくて、僕のことも同じくらいな感じで扱ってるんじゃないかなぁって」
「ふーん」
「……なんか反応が冷たいですね」
「そんな事ないよ?」
 にっこりと笑ってみせるが、雪也が感じている重圧感は少しも減る様子は無い。
 むしろ、増している気がするのは何故なのか。
「雪くんが言うとおり、あの人がカノジョじゃないんだとして。じゃあ、どうして抱きつかれてるの?」
「それは僕に聞かれても困るんですが」
 抱きついてくるのは秋乃である。雪也から抱きついてるわけではないし、いつも「やめてほしい」と言っているのだ。
「雪くんが、抱きつかれて鼻の下を伸ばしてるからじゃないの?」
「……鼻の下って」
 けれど否定しようとしても、否定しにくい。東島秋乃は現代日本の価値観や美醜の観点から言って美人の部類に入る。おっとりとした性格と、正反対な豊かなスタイルは大学でも様々な男からアプローチを受けているのではなかろうか。それに抱きつかれて鼻の下を伸ばすのは男という生物では仕方ないのではなかろうか。そうでなければスレンダーな女性が好みであるとか、幼女や男性にしか興味がないような特殊な性癖の持ち主であるとか。
「……否定、しないんだ?」
「いや、だって! 僕も一応男ですし、綺麗な人に抱きつかれたら道義云々は別にして嬉しいのは間違いないわけですし! ……あ、あー。いや、その」
 冬香の目が半眼になっていた。雪也が言葉に詰まるのを見て、冬香がさらに不機嫌になった。とはいえ、どうしたら良いというのか。問題になっている行為は、雪也が望んでやってもらっている訳ではない。彼がイニシアティブを持っている行動ではないのだ。それについて小言をもらうのは、雪也にしてみればお門違いな事で怒られている気がしてならなかった。確かに職場で同僚に抱きつかれている、というのは社会人かつ責任ある立場にいる冬香の目からすれば論外なのかも知れない。それについて小言をもらうのは仕方ないかも知れない。けれども、その責任が雪也一人にかかるのは、どうにも違う気がするのだ。
「……雪くん、ああいう人が好みなんだ?」
「何故にそんな方向に」
 しかも、そんな事を言われるとなれば、なおさらだった。
「違うの?」
「……違うか、といわれると、まあ好みのタイプかも知れないですけども」
 雪也の呟きに、「ふーん」と冬香がつまらなそうに頷いた。
「確認取ったわりに、反応が冷たくないですか」
「そんな事ないよ?」
「……付き合ってる人はいないです。秋乃さんは、そりゃ嫌いじゃないけど、そういう対象じゃないです」
 静かな声で、雪也が告げる。不意に真剣な空気が二人の間に満ちた。
 冬香も、表情を少しだけ改めて、雪也を見る。
「違うんだ」
「違います」
「そっか」
「はい」
 そっか、ともう一度冬香は呟いた。

 深夜、冬香は自分の部屋でホットココアを口に運びながらぼんやりとしていた。
 雪也にカノジョがいるかも知れない、という点に思考が至った時に採った自分の行動には雪也も驚いているだろうが、正直なことを言えば冬香本人が一番驚いていた。
 義姉として、保護者として、彼の職場での態度を諌めようと思ってはいたが、彼の私生活についてまで干渉するつもりは無かった。無論、その生活態度が乱れているのであれば、保護者として干渉することを躊躇うつもりはない。だが柊雪也という少年は、出来すぎていると思うほど『良い子』だった。面倒ごとは起こさず、学校でも品行方正で通っているらしい。学業の成績も良く、礼儀だってちゃんとしている。
 手のかかるような事は一切無い、ちゃんとし過ぎている雪也に対して、あんな風に絡んだのはもちろん初めてのことだ。……素面では。
 雪也が怒り出しても不思議ではなかった。そんな状況でも、彼は困った顔をしながら自分を説得しようとしていた。

 『……違うか、といわれると、まあ好みのタイプかも知れないですけども』

 脳裏に、彼の言葉が浮かぶ。考えてみれば冬香は雪也の趣味なんて、何も知らない。彼がどういう趣味を持っていて、どんなものが好きなのか。テレビではバラエティを見ているが、教養番組みたいな番組も好みらしい。それくらいだ。本を読んでいる姿をよく見るし、本棚にも色々な本が並んでいるが具体的な趣味は知らない。
 一緒に暮らしだして一年になろうというのに、雪也のことをほとんど知らないことに気付いて愕然とした。学校の成績は知っていても、学校でどんな友達と居るのかは知らない。この家に友達を連れてきたことだって無い。
 休日に連れ立って出かけることはあるが、冬香が誘わなければ雪也が冬香と一緒に出かけるようなことも無い。
 考えてみればみるほど、雪也のことが分からなくなる。当然だ。家族として暮らしていても、結局のところ彼は他人なのだから。これが幼児だったなら、重ねる時間で理解を深めることだって出来ただろう。だが、今の雪也はもう既に人格としては完成しかかっている、青年に近づいた少年なのだから。
 不意に思う。彼を子供だと思っていた。だが、もしかしたら子供だと思うのは間違いだったのではないか?
 彼は弟であり、そして見知らぬ男だった。
「バカ」
 自分を抱きしめて、そう呟く。
 雪也は弟だ。大切な弟だ。
 そうとも。そうでなくてはならない。そうでなくては―――――。
「――なに考えてんの、私」
 冬香は迷走する思考を、そこで断